上達しない仕事 保育士 | デブリマンXの行方

デブリマンXの行方

いつか見えない社会問題になると信じている自分のような存在について、自分自身の人生経験や考えたこと、調べたことをまとめ、その存在を具体的にまとめることを目的とする。

 

上記の記事のように、ここ1週間の実体験として学んだことは、「人間疲れていると何一つ生産的な活動ができなくなる」ということだ。

具体的には、何かをやろうとしても、すぐに気が散って思考がまとまらない。結果、ぼーっとネットサーフィンして(わたしの場合、だらだらQuoraの記事を読んで)無駄な時間を使い、睡眠時間が短くなるという悪循環を繰り返す。ぼーっとしている時でもできることというのは、習慣化していること、映像・音楽・漫画鑑賞、テレビゲームなどの刺激があるものだと思うし、現代ならそれから大きく外れた活動をする人はあまりいないのではないかと思う。

 

前振りは以上として、今回は「書こう書こう」と思っていたが、結局疲れで断念していてしまった記事を書こうと思う。

内容は、「わたしは何故、保育士の仕事が上達しないのか」というもの。

上手くまとまればわたしの今年の総決算になるレベルの記事だが、今のわたしの脳みそは、もう霧がかかっているのかすら自覚ができない状態であるので、そこまでしっかりしたものにはならないだろう。とりあえず、草案を書くような気持ちで、自分の考えを吐き出して書いていこうと思う。

 

 

 

1.尊敬について

仕事であれなんであれ、何かの組織に所属してものを学ぶのであれば、その道の先輩を尊敬することが大切である。その人のことを尊敬し、自分に必要な全てを模倣したいと思えるからついて行けるのである。また、尊敬までは行かなくとも、仕事の場合は、その人と同じことができていれば最低限の仕事ができるという目安になる。

 

では、今のわたしはどういう状態かというと、初めは保育園の先生方を尊敬していた。しかし、今では畏怖するばかりで尊敬するには遠い。先輩方に迷惑を掛けて、自分が逃げ切るまでの間、立場がこれ以上悪くならないようにしたいと祈ってばかりの日々である。文字に書き起こしてみると「The 保身」と言わんばかりの文面で涙が出そうになる。それでも、これが包み隠さない真実である。

 

 

2.仕事について

保育園の仕事というのは、ある意味「常識で考える仕事」と言い換えることができそうだ。常識というのは自明であってマニュアル化などはされない。しかも、常識は常識なので、一々教えられることもない。じゃあ、常識のない人間はどうなるかというとわたしみたいになる。「常識って何だ?」とか考えるようになり、一回一回の判断に思考が入り、迷いが生じるようになったら、かなり苦しい経験をするだろう。その四面楚歌の中で耐え抜き、何年か掛けて自分の立場や仲間をしっかりと獲得できた人が、保育園での仕事を続けることができる。

 

「常識とは何か?」と哲学的に考えると長すぎてとてもまとめられないが、保育園の仕事に限定すれば家事と育児における基本的な知識・経験である。わたしの保育園の保育士を見ると、主婦が大半であり、家事・育児の常識については公私共に鍛えられている。また、おそらく独り身と思われる先生方は、ワーカーホリックと称して差し支えない働き方で、このハンデを克服している(具体的には、全ての仕事を過剰品質でやることにより、周りから指摘される余地をなくしている)。

 

 

3.業務について

(正しい用法として、『「業務」は会社側から与えられた受動的なもの』のことらしい。仕事との区別を深く考えていなかったため、細かい用法については割愛する)

 

 

保育士の業務内容は多岐に渡るが、これらについてはもうわたしのモチベーションの低さがそのクオリティに反映されており、さすがに申し訳ないと思う。

しかし、それを差し引いても、保育士の業務はその量が密な軽作業。しかも軽作業であるために、1つ1つは大したことがなく、何か問題があると作業をプラスすることで解決する癖がある。間違いなく作業量は増えるが、そこに対する意識は薄い。例えば、その作業に「上位者の確認」を加えた場合、「上位者を探す」「上位者を待つ」など、文面には載らない作業が追加される。この1つの作業が増えることによる隠れた業務の圧迫は、しっかり問題提起して職員全員に意識させなくては改善されないが、保育現場ではおそらくどうにもならないだろう。なぜなら、日々イレギュラー対応が当たり前の仕事なので、作業が1つ増えることに対する抵抗がほとんどないのだ。また、あくまで体感だが、保育士は仕事が増えることより減ることが苦手な気がする。というのも、日々忙しいのが常態化しているため、「楽になると物足りなくなる」あるいは「罪悪感を覚える」というマインドが感じられる。福祉の分野は働き者の女性が多いと思うので、この辺りは共通しているだろうと思う。

 

わたしの業務に対するモチベーションが低いのは、それらに対してあまりにも反抗的だからである。具体的には「これよりも楽な方法を知っている」故に、目の前の作業に対する怒りが滲み出るのである。また、文章を書くにするにしてもそうで、わたしは手書きの文章が得意ではない。しかも、日常的にすぐ訂正できるパソコンで書くことに慣れてしまっているため、そもそも手書きをする意味が(わからないとまでは言わないが)とても薄いと感じる。第一、手書きの手作り感に対して、わたしは鼻で笑ってしまう。字が上手い人ならそれで良いが、そこに保育とピアノも上手い人を雇うのであれば、その年収はいくらになるのか訊ねたい。それくらいできて当然なのが現実なのかもしれないが、現実のレベルが下がっている現実を見て欲しいと思う。

 

 

4.保育について

保育について語れることはあまりない。

ただ、華々しいイメージとはかけ離れていることだけは確か。

外から見える部分は頑張って化粧をしていると思って貰えれば良い。

子どもと関わるスキルは勉強すればいくらでも向上する余地はある。

ただ、教科書に載っているようなのは1対1か多くても数人で、しかもその子たちに集中できている場面であることを留意した方が良い。

わたしは学校で保育について真面目に勉強したつもりだが、わたしのような単細胞な人間ではそれと現実を上手く調和させることはできなかった。

 

 

5.人間関係と不適切保育

全てにおいて大切なことは人間関係である。これはもう疑う余地もない。

これが悪いと全てが悪い方向へ転がるし、職員間の不満や怒りは必ず子どもへ向かう。

わたしは不適切保育は悪いことだと知っている。だが、不適切保育をしてしまう保育士の気持ちが痛いほどよく分かるし、グレーゾーンの領域では間違いなく不適切保育を行っている。

保育業界は、不適切保育に繋がる行為やそれに対する倫理観の教育を保育士に行っているが、正直馬鹿なんじゃないかと怒りを覚える。

何が良いことで何が悪いことなのかくらい、保育士自身もよく分かっている。

それでも問題が起こるのは、保育士の意識だけではとっくに限界を迎えているからだ。

保育士への負担を強いることが不適切保育に繋がっているのに、負担を増やすばかり。

 

しかもこの上に恐ろしいのは、負担を減らそうとするとそれはそれで保育士の反発を招くという点で、忙しさが失われるのはそれはそれで寂しいと感じる保育士が一定数はいるところ。その人が頑張ってしまうから、周りもそれに気を遣わなくてはいけなくなってしまう。保育士の業務が減れば、徐々に全体の仕事量は減るが、そのスピードはとても緩やかになるだろうと思う。そしてその分、昔の忙しかった時代を武勇伝のように語る保育士も出てくる。そう考えると、「今の若者は」という定型文は、これからも長く使われ続けていくことがよく分かる。

 

 

 

だらだらと書き、ところどころストレートな怒りも湧いたが、その怒りは至らない自分に向けられたものだろうか?

正直、分からない。

自分が福祉向きの人間で無いことはほぼ間違いないのだが、「ほぼ」を付けてしまうくらいには自分の判断に不安があることは間違いない。

今のままだと人としての限界が近いことも間違いない。

自分は正気のつもりでいるが、おそらく今のわたしは疲れ切っていて、その判断の多くは誤りだろうと思ってしまう。

転職先への希望も今は無く、不安の中に閉じ込められている。

ここから誰も助けてくれないことだけは確かである。

世の中にサービスはたくさんあるが、わたしのような人間が一番満たして欲しいものを満たしてくれるサービスは誕生していないのではないだろうか。

あるいは、そのようなサービスこそ、麻薬のような違法物なのかもしれない。

 

保育園退職まであと1ヶ月あまり。

ここまで来て、デブリマンの面目躍如な心境に陥るとは思っていなかった。

最終決戦にふさわしいと思うと感慨深いものがないわけでもないが、

それ以上に夢も希望もないのが悲しい。

 

仕事で苦しみたくない。

ただそれだけのものがどうしてこんなにも遠いのか、不思議で仕方が無い。