システムの中で生きる | デブリマンXの行方

デブリマンXの行方

いつか見えない社会問題になると信じている自分のような存在について、自分自身の人生経験や考えたこと、調べたことをまとめ、その存在を具体的にまとめることを目的とする。

わたしは今『犯罪心理学者は見た危ない子育て』(出口保行 著.SB新書)を読んでいる。前作『犯罪心理学者が教える子どもを呪う言葉・救う言葉』(出口保行 著.SB新書)は、わたし自身が呪われまくっていることもあり、わたしからすると目からうろこという感じはしなかった。しかし、今作は子育ての環境がメインとなっており、その家庭は比較的裕福な家庭の設定が多い。家庭の貧富で言えば、わたしは特別貧しいわけではないと思うが、かといって裕福というわけではないので、今作の設定から見る子どもの育ちというのはとても興味深く、楽しんで読んでいる。

 

本書の第3章「人の気持ちがわからない子──甘やかし型の身近な危険」の中に、以下のような文章があった。

強盗は、もっとも原始的であり、頭を使わない犯罪です。(P148)

ここ最近で特に印象に残った強盗といえば、今年の5月に東京・銀座で起こった時計店の覆面強盗だろう。強盗のやり方が派手過ぎることもそうだが、非日常的な光景が行われていても全く気にしない通行人の姿についても色々考えさせられる事件だった。

 

 

また、上記の記事を調べようとしたところ、それ以降も似たような事件が起きているようで、すぐに目当ての記事には辿り着けなかった。ポケモンカードに強盗が入るくらいだから高級○○店の経営リスクは近年跳ね上がってしまったのかとすら感じた。

 

強盗は、もっとも原始的であり、頭を使わない犯罪らしく、実際その通りだと思う。

少なくとも、子どもの頃に名探偵コナンくらい見る機会さえあれば、こんな力業の事件を起こすとはわたしには思えない。

 

ではなぜこのような原始的で頭を使わない犯罪が起こっているのか?

それぞれの家庭環境は当然あるだろうが、わたしは短期大学時代のとある実習先で、家庭はしっかりしている非行少年(自動車泥棒)の子と関わったことがある。なので、家庭の貧富が必ずしも事件を起こすわけではなく、そのことは上記で紹介した著書の通りである。

 

原始的で頭を使わない犯罪がなぜ起きるのかと言えば、原始の部分はともかくとして、実行犯は頭が使えない状態になっているからだとわたしは考える。

この問題を考える上でのキーワードは他責思考という、今年度のわたしをもっとも悩ませている言葉そのものだろう。要するに、「俺は言われたことをやっただけ。責任はやらせた奴らにある」ということだ。幼い頃から家庭や学校であれやれこれやれで育って来た子どもにとって、人から言われたことはただやればいいことなのである。会社で言われた通り働いたんだから金をくれと同様、言われた通り強盗したんだから金をくれレベルの話であり、そこには犯罪者の烙印が押されるところまでの思考はなかったのではないだろうか。あるいは、その非現実的なスリルそのものを楽しんでいたとか、将来の武勇伝になる(箔が付く)くらいに考えていたのかもしれない。いずれにせよ、実行犯の得られるメリットが、法を犯すリスクを上回っていたことは間違いないだろう。

 

わたしが子どもの頃に教わった人生は、学校行って就職して結婚するというものだった。あらゆるものがそれに対応してシステムが構築されていた。ただし、システムが構築されていても、それがほとんど機能していないと知ったのは社会に出てからである。学校で学んだことは使われない。法律よりも慣習が優先される。民主主義はただの多数決。結婚=幸せではない。それらに失望した先にある言葉が自己責任なのだから、精神疾患も自殺も増えて当たり前である。しかも、自己責任を押しつける人々は、人生ゲームのゴールが見えてるオマケ付きである。自分の子どもが引きこもりか自殺でもしない限り、我関せずでどうとでもなるだろう。

 

システムの中で育った子どもはシステム中でなら生きていけるが、その外に出るとあとは本人の資質だ。素直な良い子が通用するとは限らず、面従腹背で要領の良い子が無難に世渡りするということは大いにありうる。正直者が馬鹿を見る時代というフレーズをどこかで聞いたが、わたしはこのフレーズの問題点はこの言葉の意味そのものよりも、子どもの頃に正直者を推奨しておきながら、梯子を外すところはしっかり外す社会そのものだと感じる。「俺は言われたことをやっただけ。責任はやらせた奴らにある」と上にも書いたが、これは必ずしも犯罪者の理屈ではないことは社会人の胸に聞いてみれば分かると思う。強盗は稚拙過ぎるから悪目立ちしているが、もっとハイレベルな法律違反は身近なそこら中で起こっているのだ。そして、社会人の多くはシステムに守ってもらいながらそれを行っている。だから強盗も許されるべきとかそういう話ではない。現場と現実に則した当たり前の正しいシステムを作って、それを当たり前に運用し、正直者が正直者でいられる世の中を目指すべきではないかということだ。別に難しい話ではないはずなのに、それがなぜか難しいのだから、世の中は難しい。