葬式 泣けない | デブリマンXの行方

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いつか見えない社会問題になると信じている自分のような存在について、自分自身の人生経験や考えたこと、調べたことをまとめ、その存在を具体的にまとめることを目的とする。

今日は先日亡くなった祖父の葬式があった。

タイトルがそのまま結果だが、特に涙は出なかった。

祖父との距離は遠いとも近いとも言えないが、喪失感らしいものは特にない。

まあ、これまで何度か葬式を経験してはいるものの、一度も泣いたことも無ければ喪失感もないわけだが。

 

今回の葬式で泣いていたのはわたしの従姉妹ぐらいのもので、他に泣いている人は身当たらなかった。

祖父と最後まで仲の良かった祖母すら泣いていなかった。祖父は衰弱するまで段階を踏んでいたため、心の準備が終わっていたのだと思う。祖父の入院が長引いた時点で「おじいさん(祖父)と同じくらいは生きたいねぇ」と、すでに覚悟が決まっていたようだ。

 

祖父には息子が3人おり、わたしは次男の息子にあたる。

この3人はどうだったかというと、父は湯灌をした時に目頭が熱くなったらしい。

他の2人はおそらく何も無かっただろう。

特に祖父と半分同居状態だった長男は、介護その他の面で祖父母を快く思ってはいなかった。

仮に祖父が退院したとしても、家の中に居場所を作ることはできなかったと想像が付く。

祖父が本当にボケていたのかは定かでは無いが、もしも自分の立ち位置がわかっていたとしたら、とてつもない孤独の中にいたことだろう。同居人に疎まれる苦しみは、わたしだったら耐えがたい。いっそ1人の方が楽なのでは無いかと思う。

 

葬式におけるわたし自身の話をすると、告別式で祖父の棺桶に花を手向ける場面では眼にこみ上げるものがあったが、それが純粋なわたしの気持ちなのかはわからない。

これまでの生活や教育の中で培った、ただの常識であるようにも思う。

しかし、ほぼ同じ条件従姉妹は泣いていた。この差は何だろうか?

 

その答えは感受性にあるのではないかとわたしは考えた。

葬式自体は同じであっても、その場で感じ取っている情報量がわたしとは違うのでは無いかということだ。

わたしは自分が注意を向けたものの情報しか取り入れることがほとんどできていないと感じるが、従姉妹はそれを感じ取りやすいのかもしれない。

 

または、自分の感情に対する素直さの違いか。

わたしは人を見たら泥棒と思えを地で行くくらいには人を信用していないし、自分自身も信用していない。他人も自分も、わたしの期待に応えてくれたことがあまりにも少ないからだ。小中学校時代に長期に渡ってイジめられた経験も関係しているのだろうが、わたしが元々そういう性格で、それがイジめられる要因なったのかは今となってはよくわからない。とにかくあらゆるものを疑ってかかる性分になってしまったことだけは確かだ。

 

あるいは、わたし自身に心のゆとりがないのかもしれない。

自分の未来に対して何度か絶望した経験が、死に対する憧れを無意識に持つようになったのかもしれない。

今のわたしの目標は自分の人生を取り戻すことだと思っている。

そんな人間には、親族の死を悲しむ余裕すらないのかもしれない。

 

わたし個人としては、葬式や親族の死に泣く泣かないは個人の自由だと思っている。

そのことを薄情だという人がいるならその通りだが、そういう人とはその後関わることはないと思う。お互いのために。

 

福祉に関わっている人間としては、悲しんでいる姿を見せた方が信用に繋がるのだろうか?

まあ、そんなこと考えている時点で的外れであるし、そんなことができるくらい器用であるならば、人生でこんな苦しみを味わうことはないだろうと思う。