コミュニケーション 人間関係 共感力 不登校 | デブリマンXの行方

デブリマンXの行方

いつか見えない社会問題になると信じている自分のような存在について、自分自身の人生経験や考えたこと、調べたことをまとめ、その存在を具体的にまとめることを目的とする。

昨日の「葬式で泣けない」の続きみたいな話。

 

わたしは人と話すことは嫌いではなく、むしろ好きである。しかし、話し相手は限られており、また、自分の思うままに話せる相手は現在皆無である。好みの話題がネガティブ過ぎるため、なかなか同じような話題を好む人との縁がないからだ。また、趣味もニッチというか、大衆受けするものはほぼ受け入れられないため、社会でのやりとりには大変苦労する。話題作りのために努力できないのは、社会人失格なんだろうか?

 

以上は前置き。ここから本題。

会話というのは、話すことそのものを楽しむ行為であるとわたしは思う。基本無口というか、口を動かすことが面倒なわたしにとって、無駄話は結構なストレスだが、女性の場合は逆にストレスを発散できるらしい。男性の場合は会話の内容によるだろうと思う。

 

会話というのは極端な話、相手に共感するゲームである。少なくとも、聞き手にとってはそうである。相手の気持ちに共感して、相手の望む言葉を返すことが大切な高度なコミュニケーション。言葉を口にする前に脳内でしっかりと検閲しないと話せないわたしにとってはとても困難なものだ。また、共感力もない。

 

コミュニケーションは他者とのやりとりで培われるものだとわたしは思う。そんなの当たり前だと思うかも知れないが、わたしみたいなマニュアル人間の場合、コミュニケーション能力の教本を読んだような型通りのコミュニケーションしか取れない。なぜなら、前述のように共感力がないからだ。共感力がない人間との会話は、相手にとっては無味乾燥である。特に落ち度が無かったとしても、相手との会話に興味を持てていないことが、空気感で伝わってしまうからだ。話したがりの人相手なら問題ないかも知れないが、聞き手に回る人との会話は苦痛に感じるだろう。

 

共感力の形成はおそらく乳児期や幼児期に培っているものだと思う。

このタイミングを逃すと、共感するという感覚を身体で覚えることができない。ピアノの演奏や自転車に乗るのが、幼い頃にやっておかないと中々身につかないのと一緒だ。また、それらと同様に、一度体得すると全くストレスなくできるようになるものだとわたしは考えている。生来わたしは一人遊びが好きで、デジタルゲームとの親和性がとても強かった。そのために、共感力が培われるほど他者と関わることが出来なかったのかも知れない。

 

デジタルゲームは一人で出来る娯楽としてとても高度なものである。音、映像、面白さ。どれをとっても子どもにとっては刺激が強い。では、デジタルゲームの無かった時代はどうだったかと言えば、一人で出来る遊びは大体地味であり、子どもを夢中にするような刺激のある遊びは集団の中にあったと考えられる。なので、刺激を得るために集団に交じり、そこで共感力、コミュニケーション能力を身につけることが自然にできていたのではないだろうか。わたしの場合、デジタルゲームが好きだったが、家ではゲームが1時間と決められていたため、家以外の場所(友達の家)でゲームをする必要があった。今思えば動機が不純過ぎるが、ゲームをするという目的を達成するために友達と交流する程度のやりとりはできたと考えられる。しかし、そこに共感力が培われる余地はなかったのではないだろうか。

 

近年は不登校になる子どもが急増しているらしい。理由は色々あるだろうが、デジタルゲームやYoutubeの普及により、家の中の娯楽が潤っていることは無視できない要因だとわたしは思う。それらがなければ、子どもにとって家の中ほど退屈な遊び場はなく、刺激を求めて外に出ざるおえない。家から一歩も出ずに過ごすというのは、子どもにとって耐えがたい苦痛のはずだ。少なくともわたしにとっては(デジタルゲームが1時間しかできないから)そうだった。それが、今や珍しいことではなくなり、家から出ることすら面倒くさい時代を生み出したと言える。

 

わたし自身はコミュニケーション能力がないし、デジタルゲームも好きなので、わたしのようなデブリマンが増えてくれるのはそれほど気にならない。しかし、極端な話をすれば、それはのび太くんよりもレベルの低い大人が社会の担い手になるということである。それでも回る社会であってくれれば、安心して暮らせるのだが……。