保育園 子ども かわいそう | デブリマンXの行方

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いつか見えない社会問題になると信じている自分のような存在について、自分自身の人生経験や考えたこと、調べたことをまとめ、その存在を具体的にまとめることを目的とする。

記事のタイトルがシンプル故に過激な感じになっているが、単純に「保育園に預けられる子どもはかわいそうだ!」という暴論をまとめた記事ではないことを予めここに記載しておく。

また、ブログでこんな前置きをするのもおかしな話であるが、この記事の内容はあくまでわたし個人の意見である。わたしのような偏った考えを持っている保育士はほぼいないので、同業者や保育園を利用されている方については、本記事の内容について深く考えないで欲しい。

 

ここから本題に入る。

上の赤字と一見矛盾する表現になってしまうが、わたしは保育園に預けられる子どもはかわいそうだと思っている。なぜなら、保育園に預けられるということは、預けられる子どもはその間、保護者とのアタッチメント(愛着)を形成できないからである。

 

アタッチメントは専門用語で、説明すると本記事がそれだけで終わってしまう内容である。なので、ここではそれより俗っぽくてわかりやすい三歳児神話という随分昔に否定された価値観(以下のリンク先の「1.子供が3歳になるまでは母親は子育てに専念すべきであり、そうしないと成長に悪影響を及ぼすという考え方」)で話をまとめていこうと思う。

 

わたし個人の考えとして、三歳児神話は、正しくはないが、結果的に正しくなりやすいという見解を持っている。わたしが学生時代に習った三歳児神話の否定材料は、「乳幼児は特定他者とのアタッチメント形成が重要であり、その他者は必ずしも母親である必要はない」というものである。保育者はこの否定材料を信じ、子どもにとっての特定他者になるように努める。しかし、わたしは勤務先の園や実習先の園で、自分の親よりも子どもに好かれる保育者を見たことは無い。それ故、それがどんなに素晴らしい保育者であっても、それがどんなにクズな親であっても、保育者<保護者の関係は覆らないのではないかというのがわたしの見解である。なぜなら、素晴らしい保育者もクズな親も、所詮は一般的な価値観に過ぎず、ほとんど本能のままに生きる子どもにはない理屈だからである。

 

朝、登園してくると必ず泣き出してしまう子どもたちがいる。親と別れるのが辛い(あるいは保育施設が辛い)子どもたちを見ていると、純粋に「かわいそうだ」とわたしは思ってしまう。生活のためには仕方が無いというのが世間の常識であるが、保育園を利用するくらいであればそもそも子どもを産まない方が、子どもにとっても保護者にとっても幸福になりやすいのではないかとわたしは思う。ただし、世間のしがらみがきつかったり、生きる意味を我が子にしか見いだせない場合は仕方が無いとは思う。問題は、子どもを産み育てるのは人として当然であると考え、不安定な生活基盤の上に子どもを産み落とすことである。単純な労働力として子どもも使っていた時代とは異なり、大人で働く力があっても能力不足や精神疾患で働けないことが珍しくないのが現代社会である。子どもがいることのメリットではなく、そのデメリットをよく考えて欲しいが、ネガティブ思考が嫌われる昨今ではわたしの考え方は感情論で潰されることはよく分かっている。ただ、夏目漱石のような日本の文豪たちのネガティブな作品が娯楽として愛されたのは、日本が文明開化でイケイケの時代だった。世の中ダメダメの時代であっても、ネガティブを無視することはあまりにも非文明的であるとわたしは思う。

 

最後に、朝、登園してくると必ず泣き出してしまう子どもたちについて、上記のような感情論ではない話をする。

保育者の視点から言わせて貰えば、保育園が嫌で泣き出す子はっきり言って安心する。なぜなら、保護者とのアタッチメントを形成できている可能性が高いからである。他者への依存や人見知りというのは、乳幼児にとっては成長の証に他ならない。逆に、何の抵抗もなく保育園に来られる子は、保護者との関わりが薄いのではと勘ぐったりしてしまう。

 

わたしは今年度いっぱいで保育士を辞める。

登園してから泣く子も泣かない子もかわいそうだと思うのであれば、わたしがそれを補ってみせる!と思うのが立派な保育者だろう。

しかし、わたしには嘘でもそんな考え方はできない。

自分の力でなんとかできないのであれば、その問題には関わりたくない。

それがわたしの本音だろうと今は思う。