『京鹿子娘二人道成寺』。
道成寺も気付けば最も観劇している作品の一つになっておりますが、
観れば観るほど深いなあ(所化ズの場面も含め)⋯と改めて。
そして今回、道行ではずうっと、扇捌きを凝視しておりました。
子供時代からの着物好きから自装他装は勿論、
着物そのものの服飾史、
茶道のお稽古から学んだ宇宙観、からの着物の装いへの影響。
日本史、文化史、宗教観などなど。
ヲタクの立場からヲタクなりに実技、座学、研究してまいりまして、
実際に着物に携わる仕事もいろいろ経てきた中で、
割と雑に扱われているなと感じる末広問題。
特に京都では本当に不勉強な美容師、着付士が多い感想で
(ソコについても私なりに模索、追究し、なんとなくその理由も解明しているのですが)、
改めて勉強し直してみても、
世間ではやっぱり間違った扱い方されていて。
特に正装の場に於いてですが、
そもそも「正装で末広を差す、持たせる意味」すら認識されていない、という現状に、
ひたすら落胆、絶望、
最近は諦めの境地ですらあります。
婚礼現場でも
「お目出度い日なので、金色を見せるように差す」のだそうですよ(呆&溜息)。
「礼」の解釈、どうなってるんだ。
色を見せたいだけなら折紙でも挟んどけ。(←暴言失礼)
◇
日本文化では『褻』『晴レ』という所謂TPOの分別世界観がありますが(西洋文化でも同様かと思いますが)、
殊『晴レ』に於ける正装では「装いで心を表す」という意味があって(西洋文化でも同様かと思いますが)、
末広とはソレを表現するのに大変よく出来たアイテム、扱い方が出来るものであるはずなのに。
日本人の心の礎である神道や、
それこそお京都様の碁盤の目の成り立ちと同じ陰陽道や風水にも通ずる意味があるということ、
こんな素晴らしくて豊かな感性、
何故知ろうとしないのだろう。
正しい知識を身につけようとしないこと、
知らないことを勉強しようとしないこと、
不勉強な者こそ間違った情報を広めがちであること、
これらの行動言動、昨今の社会問題とシンクロし、
日本文化の侵略という危険な行動であるとすら感じています。
日本文化、日本人の心が侵されるという恐れ、を通り越し、
もう、怒りしかありません。
わたくし、怒っています。
正装に於ける末広。
向きとか場所とか持ち方とか、
全部理由、意味があるんだわ(西洋文化でも同様かとおm以下略)。
あってもなくてもどっちでもいい的なアクセサリーと同列じゃねえんだわ。
場合によって扱いが変わるとか、そういうもんじゃねえんだわ。
知識無いなら意味知らないなら、いっそ持たせなくていいわ。
↑暴言失礼(怒ってるので)。
(この怒りの矛先ですが、普段着物に触れる機会の少ない方、趣味で楽しんでいらっしゃる方へ対してではなく、
紛いなりにも着付士名乗っておいて、フォーマルの場に携わる仕事に就いておいて、己の不勉強棚上げして薄っぺらい言い訳だけしている連中に対してです。
お代いただいているなら相応の知識は身につけるべきです。)
◆
というわけで。
ああ、やっぱり、こうだよなあ。
この所作だよなあ。
末広を使用するのは道行のみなので、
身体ごと花道に正面向いて正座で臨みたい心持ちです。
先人たちが紡ぎ、大成してきた道。
込められている心、感性。
ソコへ思いを馳せながら観劇する舞踊。
やはり、正しい姿は筋が通り、説得力を伴う。
シンプルに、グッと舞踊も楽しくなる。
至極、私事ですが、
わたし、間違っていなかった。
本当に清々しい気持ちで観劇出来た道行でした。
観劇の感想になっておらずすみません。
本題についてはまた後ほど。




































