揶揄したわけではなくて、妬みです。文学士などといっても、いざとなりゃ軍人に頼るしかない。それでは三文の価値しかない。それを思い知らされた。正岡(子規)も同じことをいうでしょう。
夏目漱石
母さん、ワシは少しは世の中のお役に立てたんじゃろうかの?
秋山真之
降る雪や 明治は遠く なりにけり
中村草田男
日露戦争が終結した後、残ったものは茫漠とした不安だった。
日本はポーツマス講和条約で樺太の南半分を割譲して領土にする権利を得ただけに終わり、ロシアから賠償金は一銭も取ることができなかった。勝利とは程遠い条約締結、実情を知らされない国民は焼き討ちなどの蜂起に走り鬱憤を晴らした。政府は結果的に戦争の実情を隠し続けた。明治時代は帝国主義の時代だからもしかしたら国民に情報を与える義務は政府にはないと考えたかもしれない。しかし、情報を与えない政府、知らされないままに迷走する国民、この構図は19世紀から21世紀に至るまでまったく変わっていない。
明治は決して抑圧された目線で見るばかりでは真実は見えない、と、番組で述べており(記憶を頼りに書いているので文言は正確さを欠きます)、その明るさへの憧憬として中村草田男の句を紹介している。だが私は明治時代のこの輝かしい(とあえていいます)日露戦争勝利から教訓を得ることよりも、夏目漱石が子規亡き後の正岡家で律(菅野美穂)や子規の門人の前で呟いた自責の念に非常に共感する。今年の3月11日におきた出来事について、何もできないと感じる無力感をおぼえる今の日本人(その中にいる私自身)と漱石の思いがどうしても重なって見える。
この極東の島国はとりあえず誇れるものを手に入れてきた。
19世紀にはまがいなりにも列強と戦える軍隊を手に入れた。
20世紀には経済大国と呼ばれるほどの金と資産を一度は懐に収めた。
でも、いつも自分は何もできない、そんな無力感を持つことから逃れることはできなかった。戦争というものは、日本にとっては一時そんな絶望を忘れることができたときだったかもしれない。漱石は自責の念を吐いたとき、律が
「兄さんは、そんなこと(自分に三文の価値しかない)はいわんかったじゃろ」
と逆に文学士を諭して見せた。しかし、この平成の世に、大震災が起こった今、律のように力強く否定できるだろうか。明治は遠くなりにけり、とはどんなときでも自分を見失なわない人間がいた時代が過去になっていくことへの憧憬かもしれない。日本人はより孤独になり、自分に生きる価値を見出すことができなくなった。私にとって今『坂の上の雲』から生きる教訓を得るのは難しい。むしろ、何もかも忘れて頭が空っぽの状態で何かに夢中になったほうがいいとさえ思える。この小説(ドラマも含む)はサラリーマンや企業の社長によく読まれ組織で生き抜く上での教訓を得るものとして絶大な人気がある。しかし、企業倫理が崩れ政治不信が叫ばれる今、あえて教訓を読み取らないほうがいいのではないか。国を守ることに躍起になった時代から人間ひとりひとりの幸せを求め、かえって生きる価値を見つけにくくなった、それが21世紀の日本である。夏目漱石は小説にはいっさい登場しない。しかし、小説の主人公である秋山兄弟と正岡子規が持ちえた前をのみ見つめる強さを受け取るより、小説に出てこない漱石の憂鬱をあえて受けとめ、その憂鬱の在処を探したほうが今の時代にあっているのではないだろうか。
平成の時代は、憂鬱の時代、一億総憂鬱世代である。