キリスト教とは何かとたずねると、多くの方が、「それはイェス・キリストの教えだ」と答える
とは、立教大学(英国国教会・聖公会系ミッションスクール)でキリスト教を教えていた赤司道雄の『聖書とは何か』(中央公論社)にあったものですが、赤司先生は、これは大きな誤りであるとしております。
世界史の試験なんかで、こう答えても正解がもらえるとは思いますけどねえ。
しかし厳密に言いますと、赤司先生も書いておりますが、「イエス・キリスト」は固有名詞ではありません。ときどきイエスを略して「キリストは」なんていう方もいますが、この本来の言葉は「メシア」で、その意味は「救世主」であります。
もっと言いますと、「油を塗られた者」という意味で、当時のユダヤでは、王に就任するにあたって儀式で油を塗って聖別するという風習があり、イスラエルの英雄であるダビデが、その対象となっております。
聖油を掛けられるダビデ
また、当時、イエス以外にも自称、他称は問わず「メシア」とされた方が何人もおりました。洗礼者ヨハネもまたそうではないかと言われておりました。
ゆえに、今日でも、「我こそはキリスト(※イエスの再来)である」と言ったっていいわけです。
こんな方もいました
して、赤司先生に言わせますと、キリスト教とは正確には「イエスをキリスト(メシア)とする、信じる宗教」であるとします。さらに「聖書」とは、このキリストに関しての書物なのだとか。
つまり、単位イエスの説いたことが書いてあるというだけではなく、イエスをキリストとする信仰の書ということになるでしょう。
イエスの説いたことに限るなら、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという四つの福音書だけです。しかし、新約聖書には他にパウロの手紙、そしてヨハネの黙示録があり、これらはそれぞれ別の人間の思想(神学)であります。
まず、この新約、旧約の意味、違いを押さえておきましょう。
ちなみに、あっしがまだガキだった頃、「新約・旧約」を「新訳・旧訳」だと思い込み、「なんで、新訳があるのに旧訳なんか読まねばならんのだ」なんて思っておりました。して、こんな程度でしたから、通っていた日曜学校の落ちこぼれとなり、破門(?)されてしまったようなものです。
新約とは、「新しい(神との)契約」という意味で、イエスの登場をもって、それまであった古い契約を破棄し、新しい契約を人間との間に結んだとします。そして旧約(聖書)の方は、イエスの登場前史とされ、そこに「近い将来、メシアが生まれる。彼こそがユダヤ民族を救う偉大な者」という預言があります。
ただし、これは初期キリスト教徒が、イエスこそを待ち望んでいたメシアであるとする解釈から生まれたもので、ユダヤ民族はイエスその人を預言者の一人のごとく扱うも、彼をメシアとは認めておらず、あえて言えば今でも、そのメシアの登場を待っているのだとされます。
ゆえに、ユダヤ民族からすれば聖書とは、キリスト教徒が言う「旧約聖書」でありますが、そもそも、彼らの聖典をキリスト教徒が勝手に「旧約聖書」なんて名称を付けて、自分達の信仰の書にしているのが気に入らないようです。
あえて言えば「キリスト教」とは、本来であればユダヤ民族の宗教であったとも言えます。イエスその人がユダヤの地に生まれたユダヤ人であり、当時のユダヤ教の改革を意図していたところがあります。彼をメシアと信じたパウロも同じで、今でこそイエスをキリスト教の始祖とし、パウロを教祖とするというような考え方もありますが、両者はいずれもユダヤ教に変わる新しい宗教を創始しようなどとは考えてもいなかったようです。
イエスにしろパウロにしろ、自分達はユダヤ教徒であると思っていたようでして、彼らをキリスト教徒(!)とは言えないように思います。早い話が、彼らの死後になって初めて、イエスこそをメシア(キリスト)とするキリスト教が誕生したとも言えます。
さて、まずは、そのイエスの登場前史とも言うべき「旧約聖書」なるものから見てゆきましょう。
言わずもがなですが、これはそもそもイエスの誕生前に作られたものであり、イエス自身、ここに書かれてあることを引用したりすることはありますが、厳密に言えばイエスの説いたこととは何の関係もないものです。
そして、そこにあるのは古代ユダヤ民族の、歴史であり、倫理規範(法)であり、詩歌文学です。ゆえに、キリスト教の本質をイエスの主張だとするなら、旧約聖書なんぞは言うなれば参考書(!)のごとくの位置づけともなります。
もっと言うなら、福音書だけで十分とも言えます。
しかし、キリスト教とは、少なくとも一般的に言われているキリスト教とはイエスその人の説いたことだけではなく、パウロの説いたことも含まれており、さらにはヨハネの黙示録や、旧約聖書の内容までを含めた総体というものになっているのであります。
さらに、新約聖書にしろ、旧約聖書にしろ、これらは過去に、あまたあった、それぞれ書かれた時代も著者も異なった幾つもの文献、資料の中から重要なものとされているものを選び出し、編纂したものであり、これを「正典(カノン)」と言います。
して、この正典からはずれてしまったものを外典(※旧約には偽典というものもある)といい、新約、旧約それぞれにありまして、これらを全て合わせますと、正典をはるかに超えた膨大な量にもなるとされます。
仮に、これらの外典をもキリスト教(聖書)に含めるともなりますと、一生かかっても読み切れないものになるともされます。
んなもの誰が読むんだ!?
ですよねえ。
ただ、キリスト教にあっては、その宗派ごとに解釈が違い、こういった外典の一部を正典に含めたり、重視したりする場合もあります。
ゆえに、その宗派の教会などでは、このような外典に書かれていることも説教に用いられ、それがゆえに、例えば西洋絵画には、この外典にある話を題材にしたものも少なくありません。
例えば、あの、切られたばかりの生首をもって微笑んでいる怖い女性の絵は、福音書に登場する洗礼者ヨハネの首を求めたとされるヘロデ王の娘であるサロメを彷彿させますが、それとは別に古代ユダヤの女傑と言われたユディトという人妻でして、この話は旧約外典の『ユディト書』にあります。
同じく、よく題材にされた『スザンナと長老達』という妖しげな絵もまた『ダニエル書』という旧約外典によるものです。
グイド・レーニ 『スザンナと長老たち』
へへへ、奥さん、わしらと仲良くしようぜ
なーに、黙ってりゃわかりゃしないさ
こういう予備知識がないと、こんな絵を見ても「なんじゃこりゃ?」ってもんでしょう。
こと西洋美術は、ギリシア神話やキリスト教の聖書にある話を題材にしたものが多いのであります。
ゆえに、美術館や展覧会などに行き、
この絵はだな、旧約聖書のダニエル書にある話に基づいたもので・・・
なんて、偉そうに知ったかぶりをすることができます。
(いますねえ。こういう半可通、つまり生半可な知識をひれかす嫌な奴が)