あやしい言語学 伝えようとしていなくても勝手に伝わってしまうという、困った情報伝達もある | 日々の妄言、ざれ言、たわ言、世迷言

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思いつくことを適当に書き込んで行きます。まことしやかに書かれておりますが、何の根拠もありません。適当に読み流してください。

コミニュケーションというのは、基本的に、

 

 

伝え手(発信者)の持っている情報(メッセージ) → 受けて(受信者)

 

 

という仕組みになっております。

 

しかし、実はこれ、そう簡単なものでもないのであります。

 

 

例えば、草原に一匹のウサギがいたとしましょう。これを近くを通りかかったオオカミが見た場合はどうか。

 

 

 

 

 

おいしそう!

 

 

 

オオカミはそう思うはずです。

 

一方のウサギとすれば、「わたし、おいしいのよ。食べてみない?」なーんて言ってはおりません。

 

 

 

つまり、これはオオカミが勝手にそう思っているだけのことであります。

 

オオカミとすれば、ウサギというその存在そのものが「食べたらおいしい」という暗黙のメッセージを発信しているということになります。

 

しかし、ここには、そのようなメッセージの伝達があるとも言えるわけで、これを「発信者不在のコミュニケーション(情報伝達)」ということができるかもしれません。

 

 

 

続きまして、ユキュスクルという動物行動学者の『生物から見た世界』という本の中に、オカヒルという吸血虫の話があります。

 

 

このオカヒルは、普段は森の木の枝に掴まっておりまして、温度センサーのような機能を持っており、たまたまその木の枝の下を通りかかった動物が持つ体温を敏感に感じ取り、自らを枝から落下させるのだとか。

 

上手く行けば、その獲物となる動物の背中なら背中に着地することができ、食べ物にありつけることになります。

失敗すると、すごすごと、再び木に登り、その下にまた獲物となる動物がやって来るのを待つのだとか。

 

 

さて、この場合も、その獲物となる動物が「自分の血はおいしいよ」などと、このオカヒルにメッセージを送っているわけではないでしょう。

 

先のウサギにしても、オカヒルのいる木の下を通る動物にしても、むしろ、そんな情報は伝えたくはないはずです。

 

 

 

続いて人間の場合です。

 

先回も書きましたが、痴漢をして捕まった男が言うには、

 

 

だって、あの女がやたらとセクシーな服を着ているから

俺だって男だから、つい、ムラムラっときて

 

 

なんて勝手な理屈というか、言い訳です。

 

 

して、ファッションというものは、確かにそういった要素を持つものもありますが、むしろ、そういった要素などないものもあります。

 

 

例えば喪服です。

 

 

 

 

 

しかし、広い世の中「喪服フェチ」なんてのもいるとされます。

 

こういう方が、葬儀なんかに行ったら大変でしょうねえ。

 

 

 

セーラー服や、警官やOLなんかの制服も、本来はそこに何の意味もないはずなのですが、こういう服を見るとコーフンするというような方もいるようです。

 

 

いずれの場合も、それを身につけている方がメッセージ(性的な意味)を送っているわけではありません。

あくまで受け手の問題なのです。

 

 

 

続きまして、今度は受け手(受信者)が不在というものを考えてみましょう。

 

 

 

選挙が近くなりますと、街頭演説なんてものをやられる候補者がおります。これ、まともに聞いている人なんていないように思います。思うに、これは、そういった候補者を有権者に印象付けるというパフォーマンスでしょう。つまり、これをやっている方も、誰もまともに聞いていてくれなくてもいい、と思っているように思います。聞かせるのが目的ではないのでしょう。

 

 

次に、スマホならスマホに勝手に、大量に送り付けられてくる、言うなれば「商業的迷惑メール」です。

 

あっしの場合、こんなものは一切見ることもなく、次々に削除しております。

 

 

これに限らず、そもそも広告宣伝なんていうものも、その大半は、そのメッセージが受け取られることもないように思います。

 

言うところの情報の垂れ流しです。

 

 

あえて言えば、いいもの、必要なものは、黙っていても売れるもの。逆にそうでないものは、やたらと宣伝される。

 

 

 

さて、我々が神社仏閣に行って祈願するということはどうでしょう。

 

これは少なくとも、神仏がいる、在るという想定が前提となっているはずです。

 

 

そうでなかったら、これまた、壁に向って話しているようなものでしょう。

 

 

しかしながら、時には、人間の側からの祈りに応えてくれる神仏がいる、とされることもあります。

 

神(仏)の声が聞こえた」なんておっしゃる方が、時々おりますからねえ。

 

 

ただし、こういったものは、あくまで、その方自身の主観に基づくものでしょう。もしかしたら、自分の心の中の声を、神仏の声だと勝手に思い込んでいるのではないのか。

 

 

 

悪魔の囁きも、実は自分の心の声?

 

 

 

 

最後に、日本の古い葬儀の風習に、「魂(たましい)呼び」というものがあります。

 

息を引き取ったばかりの方の魂は、まだその周囲にいるはずだとして、家の屋根に登ったり、あるいは井戸の底に向かって、亡くなった方の名前を呼ぶのであります。

 

 

言うまでもなく、返事が返ってくるはずもなく、これは残された人々が、心の区切りをつけるための儀礼のようなものだと思われます。

 

 

しかしですよ。

 

もし、井戸の底に向かって、その方の名を呼んだら、返事が返ってきた、なんてことになったらどうか?

 

 

 

 

貞子?

 

 

 

 

怖いですねえ。

 

 

あるいは、亡くなった方の枕元で、その遺族が泣きながら「あなた、返事をして」と声を掛けたら、

 

 

 

うるせーなー。気持ちよく永眠するところなのに

起こすんじゃねーよ。ったく、もう

 

 

なーんて、むっくり起き上がったりしたら・・・、これは、下手をすると、もう一つ、葬式が必要になるかもしれませんからねえ。

 

 

できることなら、やって欲しくないです。