『史録 日本国憲法』総括 ③ 日本国憲法は押し付けられたものであったのか? | 日々の妄言、ざれ言、たわ言、世迷言

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思いつくことを適当に書き込んで行きます。まことしやかに書かれておりますが、何の根拠もありません。適当に読み流してください。

あくまで日本の国体の優先を、というのが松本国務相率いる日本の憲法改正委員会の立場でした。

 

 

 

 

 

しかし、その保守的というか、旧態依然とした草案内容にGHQは失望いたします。それはGHQ,言うなればアメリカが望んでいたものとは大きくかけ離れたものでした。

 

 

国の基礎法である憲法が、結果としてであれその方向を誤らせ、いっそ暴走させるようなことになったとすれば、そのような憲法は根本的に修正すべきであるというのがアメリカ側の考えでしたが、日本から提出された草案は、あくまで法解釈の問題であり、そのようなことを起こさないようにすれば、それこそ「今度は大丈夫です」というものであったのであります。

 

 

問題が発生しても、その上っ面だけを修正すればいい、という傾向はよくあること。

 

パワハラが問題となった市長が、それに対する研修を受けたからもう大丈夫だ、なんて言うようなものでしょう。

その基本的な体質が変わるとは考えにくいです。

 

 

余談ながら、あっしがいた会社の取引先は、納期を守らぬことが多く、担当者を叱責すると必ず「今度は大丈夫です」なーんて言うんですが・・・。その後に「大船に乗ったつもりでいてください」なんて、これまた嘘八百をねえ。

 

 

この言葉にどれだけ騙され、泣かされたことか。この担当者をタイタニック野郎、って思ってました。

 

 

 

さて、そこでGHQは、これはもう、日本に任せておいたらダメだと結論します。

 

そして、マッカーサー自らが基本となる三原則を呈示し、これに基づいて作成されたGHQ(総司令部)草案を日本側に渡します。

 

 

実は、このようにGHQが草案作成を急がせていたのは、近日中に動き出す予定の連合国側11ヵ国の代表からなる日本占領の統治機関とも言える極東委員会の一部には、天皇制廃止、さらには天皇にも責任を取らせろ(刑を与えよ)という声があり、GHQとしては、そのような、それこそ日本の国体の維持どころか、その根底までひっくり返し大混乱を生じさるようなことは望んではいなかったのであります。

 

 

こう言っては何ですが、この点からすればマッカーサー率いるGHQ、そしてアメリカは、むろんそれは自国にとって有利に運ぶという思惑があってのことでしょうが、その方向性とすれば、日本のという国のことを、他の連合国よりも遥かに考慮していてくれたように思います。

 

 

ここで、マッカーサー元帥に感謝の敬礼をしておきましょう。「昨日の敵は今日の友」であります。

 

 

 

いろいろと言われている方ですが、本当は日本という国の恩人なのかもしれません

 

 

 

 

さて、マッカーサーによって示された三原則であります。

 

その概略となるものを抜粋してみます。

 

 

1.天皇は元首の地位である

2.戦争の放棄

3.封建制度の廃止

 

 

これに基づいたGHQの憲法草案を示された日本としては、それこそ青天の霹靂、驚天動地、いっそもう、「神も仏もありゃしません」というものであったようです。

 

 

まあ、そうでしょうねえ。

 

 

しかし、日本とすればこれを受け入れるほかなく、ここに、後に「押し付けられた」という意見も出てきますが、芦田センセが言うには「たとえそのような要素があったとしても、それが全面改正の理由になるかは問題だ」としております。

 

 

これ、大事なことだと思います。マーカーペンで線を引いておきましょう。

 

 

 

さて、日本政府はこの草案に基づき、その内容を一部修正するということはあったものの、原則的にはこれに沿った大日本国憲法改正案を作り上げます。

 

この内閣による草案の公表に先立って、はじめて女性の選挙権を認めた普通選挙制による総選挙が行われ、これによって第一次吉田茂内閣が成立します。

 

 

 

 

そして第九十回帝国議会の衆議院に提出され、ここでも若干の修正を加えた後、圧倒的多数をもってこれを可決した後に、貴族院に送られ、さらに若干の修正が施され、同じく圧倒的多数で可決され、その年の11月3日に新たな「日本国憲法」として公布されます。翌年の1947年の5月3日から施行されました。

 

 

こうしてみますと、日本国憲法の成立には、様々な政治的要因が絡み、明治憲法を作成した時よりも遥かに複雑な経緯があったことがわかります。

 

押し付けられた、とはいうものの国会で圧倒的多数を持って可決されたという事実がまず重要でしょう。

 

日本という国の実情にそぐわないというものであったというなら、いくらなんんでももっと紛糾したはずです。

 

 

 

なお、そんな中で、ただ一人、表立ってこの新憲法に反対したのが、天皇機関説事件の元となった美濃部達吉であったというのが興味深いです。

 

この方は、天皇機関説事件の時に、保守派からそれこそ左寄りとして批判された方ですが、近衛文麿も言っていたとされますが、実はむしろ逆のスタンスに立っていたように思います。

 

 

ものごとの上っ面しか見ることができないような方は、そのものごとの持つ本質を知ることができない、という教訓が引っ張り出せそうな気がします。