幽霊のような怪異現象から、妖怪のような我々人間の理解を超えた存在を、ことごとく迷信だと切り捨て、これを近代の叡智を持って排撃することに生涯を費やしたとも言われるのが、哲学館、後の東洋大学の創立者である井上円了であります。
井上円了
称して「妖怪博士」。
そのために膨大な文献を蒐集し、実地調査のために北は北海道から南は沖縄までを回り『妖怪学講義』なんて本まで著します。
して、その結果、怪異現象や妖怪なるものの多くは、自然現象に対する我々の錯覚、誤認、いっそ勝手な思い込みであったことが判明します。
その一つに、東京の化け物屋敷というものがあります。
その家では深夜になると「カチャン、カチャン」と奇妙な音が聞こえてくるのだとか。魑魅魍魎が天井裏を歩き回っている?首のない落ち武者が室内を徘徊している?
いやいや、これはきっと何かしかるべき原因があるはずだと、井上博士は徹底的に調査を行います。
すると、その家で使っていた井戸の中に途中より差し水の穴があり、これより落ち込む水の滴る音であったことが判明いたします。
また、その家ではそれまで、なぜか多くの病人が出ておりまして、これまた化け物屋敷の悪霊のせいではないかとされておりましたが、この井戸の水は途中から別の水路の水が混入していたわけで、この水に何かよくない物質があったのではなかったか、と結論します。
つまるところ、怪異とされるものも、実際にはそれ相応の原因があるはず、というのが井上博士の主張なのであります。
これに対し、『遠野物語』を書いた柳田は、自身が聞き取った遠野の怪異話(怪談)に対し、井上のような視点は取らず、さらには論評も加えず、そのまま読む者に呈示しておりまして、それをどう解釈するかを読む者に任せております。
以下、『遠野物語』の中における、最も有名な怪異現象の話であります。
我々はこれをどのように解釈すればいいのか。
この話をしてくれた遠野出身の佐々木喜善という方の曾祖母が亡くなった時の話であります。
棺に取り納め、集まっていた親族の者は座敷に皆で寝たのだとか。死者の娘とありますから、佐々木にとっては祖母の姉妹で、乱心ということは何らかの精神障害により離縁されて実家に帰された女性もいたとされます。
喪の間は火を絶やすことなく忌む風習があったとされます。通夜の時は誰かが、もしくは交代で起きていて、死者に手向ける線香を絶やさないでおく風習がありますが、ここでは恐らく囲炉裏の火を絶やすことなく、その番をすることがあったのでしょう。
佐々木の母と祖母が、その役目を負っていたようです。
母親は傍らに炭籠を置き、時々炭を足していたのだとか。
ふと裏口の方より足音がして、来る者があり、見ればそれは亡くなった当の老女であったのだとか。
生前は、腰が曲がり着物に裾を引きずるのを避けるべく、縫いつけてあるところや、来ている着物の色模様も、まさにそのものであったのだとか。
老女は、二人の女性がいる囲炉裏を何もしゃべることもなくそのまま、脇を通って行くも、その着物の裾が炭とり、つまり、炭籠に入れておいた炭を取り出すための道具だと思いますが、これが、丸い、この炭取りに触れて、これがくるくると回ったのだとか。
ええええーーーーーーーー!?
まあ、この辺りで、普通の方、いっそ小心者のあっしのような人間はオシッコを漏らして気が遠くなって、茫然自失状態、いっそ腑抜け状態に陥ったのでしょうが、佐々木の母という方は気丈、つまりしっかりとした方だったそうで、振り返って後を見送っていたのだとか。
老女はそのまま、親族一同が寝ている座敷の方に向かうと、その座敷にいた、さきの精神に障害を持った(狂女とあります)の、けたたましい声で「おばあさんが来たり」と叫んだのだとか。
して、話はこれでお終いであります。
その後どーなったのかが気になる所ですが、そこまでは書いてありません。
イエスじゃありませんが、この老女が「自分は復活したのだ」なんて言ったなら笑える(?)んですけどねえ。
んで、みなで、復活祝いのどんちゃん騒ぎとなった、とか・・・。
あるいは、死んだという老女、トイレに行きたくなって棺の中から起きだしたのか?
あえて言いますが、あまり、そういうことはして欲しくないです。
おとなしく死んでいて欲しいです。
さて、このような怪異現象をいかに考えるか。
まず、最初に思い浮かぶのは、母親、そして祖母の共同幻視(※ 祖母がどう思ったかは書いてありませんが、母と同じであったようです)ということでしょう。
あるいは、祖母はうとうととしていた、つまり半睡状態で何も気が付かなかったのか。
また、夜中に起きているともなれば、それが常態である方ならともかく、誰しも夢うつつにもなるでしょう。
しかし、老女(亡霊?)の着物の裾が、丸い炭取りに触れてくるくると回った、というのが不気味です。通常、亡霊、幽霊に形はなく、つまり透き通ったものとされ、壁なんかも通り抜けてゆくとされますが、この亡霊(?)には奇妙な量感があります。
いっそ、このことがなければ、まさに亡霊と考えてよく、そうなれば幻視(幻覚)ではなかったかと推測することもできます。
作家の三島由紀夫は、この部分を絶賛しておりまして、怪異が現実へと転位しているとしております。
また、精神障碍者である死者の娘である女性もまた、この死んだはずの老女の存在を認めております。狂女とありますが、このような怪異現象と精神に異常を持った方とには、何か感応しあうものがあるのか。
して、量感がある、つまり霊体ならぬ肉体を持った存在ということは、やはり死者が棺を抜け出し、トイレにでも行ったのか、なんてことも考えたくもあります。
実を言いますと、生と死の境界は曖昧で、今でこそ科学的にその境界を分けることができるようになったとされますが、かつては葬儀の最中、もしくは埋められた墓の中で蘇生したなんて話もよくあったとされます。
メアリ・H・クラークの『月夜に墓地でベルが鳴る』というホラー小説がありまして、まさに、このようなことが題材となっております。
実際に、埋められた墓、つまり棺桶の中で生き返って、そのまま出るに出られず、助けも呼べず、何らかの事情があって、その墓を掘り起こし、棺桶を開けてみたら、恐らくは爪で引っ掻いたのか、蓋の裏側は血だらけで、その顔は醜く歪んだ死に顔だった、なんてこともあったのだとか。
ゆえに、死者の指に糸を巻き付け、細い管にこれを通し、その時は、地面に置いた鈴(ベル)が鳴るようにし、埋葬してから一昼夜は、そのベルが鳴るかどうかを見張る方が置かれたのだとか。
つまり、結論として・・・、やはり、実際には死んでおらず、老女は起きてトイレに行った!?
んで、後は笑い話ともなったものが、それではつまらん、ということで、あえて柳田がその後の話を削ってしまった、とか。