あやしい宗教学 趣味で宗教とは何かを学ぶ 宗教の原初形態を知るという、難しそうな考古学的考察? | 日々の妄言、ざれ言、たわ言、世迷言

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思いつくことを適当に書き込んで行きます。まことしやかに書かれておりますが、何の根拠もありません。適当に読み流してください。

宗教の起源なんてものを探るというのは、宗教学の分野でも超難問なのだそうです。

 

 

例えばの話、250万年前、アフリカにいた人類の祖は夜空に輝く星を見て何を思ったのか。この頃には、脳の容量がきわめて大きくなり石器なんかも使い始め、人類を取り巻いている世界は言葉の発明によって如何なるものとして捉えられるようになったのか。

 

 

なぜ昼間と夜が交互にやってくるのか?雨は上から落ちてくるのに、空に輝く星はなぜ落ちてこない?

 

 

 

夜空に輝く星はなぜ落ちてこない?

 

 

 

 

生とは何か、死とは何か?

 

 

夜、焚火にあたりながら人々は、それこそ脳をフル稼働させ、想像力を駆使して、いろいろ考えていたのだと思います。

 

さて、今回も脇本平也の『宗教学入門』という本の第二章「宗教の原初形態」に沿って考えてみたいと思います。

 

 

人類の宗教の痕跡として最も古いものとされるのはネアンデルタール人による埋葬儀礼なのだとされます。彼らは約10万年~3万5千年前あたりまで生息していたようですが、当初は人類の祖とも考えられたようですが、今は現生人類の極めて近い親類であったようです。

 

 

彼らが絶滅してしまったのか、それとも現生人類に吸収(?)されてしまったのか派は不明です。

 

広義的には、彼らも人類(人間)とされます。

 

 

 

このネアンデルタール人ですが、どうやら死んだ仲間を穴を掘って埋める、つまり埋葬することを行っていたようです。

 

人間にきわめて類人猿であっても、このようなことはしません。

むしろ、たとえそれが血の繋がった仲間であったとしても、生物の本能として死は危険なものとするのか、遠ざかるようです。

 

 

サルの雌が、死んでしまった我が子を捨て去るのが忍びなかったのか、これをずっと背中にしょっていたところ、他のサルたちが強引に引き離して捨てさせた、なんて話があります。

 

死によって、その肉体は腐敗し、そういったものに接触するということは危険であると理解しているのでしょう。

 

このような感覚は、日本だと「死穢れ」なんて概念になっております。

 

 

 

ゆえに、そういった死体を穴を掘って埋めるというのは、特異な、きわめて人間的な行為なのであります。

 

 

「死して、屍(しかばね)拾う者なし」じゃ、あまりに可哀そうだろう

『大江戸捜査網』じゃねーよ、ってなー

んだ、んだ。穴を掘って埋めてやろうぜ

 

 

 

 

 

なーんて会話があったのか。

 

して、このネアンデルタール人の埋葬ですが、身体を伸ばしたものと、身体を折り曲げたものがありました。

これを便宜的に、「伸葬」、「屈葬」といいます。なお、屍体の周りには石器や動物の骨が置かれておりました。

 

 

 

 

 

屈葬

 

 

 

また、ただ穴を掘って埋める、いっそ投げ込むというのではなく、頭を東、足を西の方向にしてあるなんてものもあったようです。

 

なお、屈葬については様々な解釈がありまして、日本にもこのようなものがありますが、石を抱かせたものがあり、これは死者が墓から抜け出してこないように(?)という、死者の亡霊を恐れたものとも、あるいは胎児の姿にして、その復活再生を願ったのではないか、ともされます。

 

頭を東の方に向かせたものは、沈んだ太陽が再び昇るがごとく、同じように復活再生して欲しいと願ったゆえなのか。

 

 

 

んで、埋める方が、方角音痴で、うっかり頭を北の方に向けてしまったなんて場合、死者が怒って「縁起でもねえ」なんて墓から這い出して来かねない?

 

中には、俺は死んだら西方浄土に行きたいから、その時は頭は西に向けてくれ、なんて遺言した方もあったのか。

 

 

 

さてさて、このような埋葬の仕方を見る限り、再生復活するのか、あるいは一緒に埋められた石器などの副葬品からするに、どこかに死後の世界、死者が行く世界があり、そこで困らないように、という想いがあったと考えられます。

 

つまり、死んだらそれで終わり、ということではないのであります。

 

 

 

むろん、これは実際にそうである、ということではなく「そうあればいい」、「そうあって欲しい」という、死者ならぬ生きている人間の願望の投影でしょう。

 

 

後に考え出された、天国や極楽もまた、そういった願望投影の産物でしょうねえ。

 

また、屈葬における、死者が生き返らないようにと考えたかもしれないというのは、死者が悪霊化しないで欲しいというものでしょう。

 

生から死へは、あくまで一方通行でなくてはならないのです。再生・復活するとしても新たなるものとしてでしょう。

 

この点、キリスト教パウロさんは、死んでも、再び、そのまま同じ人間として復活するのだ、なんて言ってます。コーディングされ(?)、それで永遠に生きられるのだとか。

 

 

でも、これだと、例えば、ジジイ、ババ―で死んだ方ですと不満が残るのではないかと思います。

 

 

二十代、せめて三十代に戻して復活させてもらえないかな

あたしは十代にして。できたら、もう少し美形で・・・

 

 

なーんてねえ。

 

よぼよぼジジイのまんま、杖持ってよたよたしたまんま、永遠に生きられる、たってねえ。

 

 

 

さて、これは約6万年前の遺跡ですが、そこから花の花粉が見つかり、これは死者に花を手向けたものとされます。

 

 

 

花が添えられていた墓

 

 

 

また、こちらはもう少し時代が異なりますが、クロマニヨン人の墓からは、赤い粘土が屍体に振りかけられたらしい痕跡があったとか。

 

 

 

赤色は血の色でもあり、生命の象徴ともされておりますが、当時の人々もそのような考え方をしたのか。

 

ここにも、復活再生思想を見ることが出来そうです。

 

 

考えてみますに、現代の我々も、言うなれば似たようなことをしております。

 

つまり、当時の人々が考えたことをそのまま受け継いでいるとも言えるでしょう。