史録 日本国憲法』の総括 ① 明治憲法の特色 なぜ、これは存続できなかったのか | 日々の妄言、ざれ言、たわ言、世迷言

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思いつくことを適当に書き込んで行きます。まことしやかに書かれておりますが、何の根拠もありません。適当に読み流してください。

児島襄の『史録 日本国憲法』の総括を、憲法学者の芦田信喜の代表的な著作である『憲法』(岩波書店)における「第二章 日本憲法史」に沿って考えてみたいと思います。

 

 

 

 

 

 

日本の敗戦と、新たなる日本の憲法の作成という、歴史上のターニングポイントとも言うべきドラマチックなできごとを、これまでたどってきましたが、そもそもこの憲法はGHQ(アメリカ)に押し付けられたものであったのか否かを念頭に置きながら、まずは、その前の大日本帝国憲法(※ 以下、明治憲法)について考えます。

 

 

 

日本における憲法の歴史は、言うまでもなく1889年(明治22年)に制定された大日本国憲法(明治憲法)から始まります。

 

この憲法は立憲主義憲法とはされておりましたが、きわめて神権主義的な君主制の色彩の濃いものであったとされます。

 

 

まず主権は天皇にあり、天皇の地位はその祖先である神の意志に基づくものとされました。

皇祖天照大御神邇邇芸命(ニニギノミコト)に、この日本の国を統治せよと命じたとする『日本書紀』の話に基づいております。

 

この辺り、史実というよりは神話というべきものですが、この時代にあっては史実とされております。

 

 

ほんとかよ」なんて、今の時代の人間ならツッコミを入れるところですが、当時は「いいから、黙って従え」であったのでしょう。

 

そもそも明治維新は、一般民衆が決起して既存の権力体制、為政者を倒し、その上で自分達は選ぶリーダーを選出したわけではなく、その権力、為政者と対抗する別の権力者達が、彼らにとって代わったというものでしたからねえ。

 

 

 

言うなれば天皇は、そのために利用されたとも言えるでしょう。

 

日本の国で一番偉いのは天皇としていますが、実質的な政治は、その天皇を頂く新興の権力者達が行っていたと言えます。

 

 

さて、この明治憲法の第1条は「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とありまして、主権は天皇にあるとしております。

 

3条には「神聖ニシテ侵スヘカラズ」とあり4条には「国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬」とあり、立法・司法・行政といったすべての国の作用を統括します。

 

さらに11条には軍の統帥に関する大権が、一般国務から分離・独立し、それに対する内閣・議会の関与が否定されていました。

 

 

 

大本営 御前会議

 

 

 

これが、いわゆる「軍部の独走」というものに繋がったとされます。軍部の目指す方向、決めることに対し政府が口出しすることができなくなってしまったのであります。言うなれば、天皇の下に政府と同じ力を持った軍部が独立してあったことになるでしょう。その軍部が主導権を握り、結果として日本という国は当初考えていたよりも遥かに大きな戦争へと突き進んでゆきます。

 

 

思うに、この憲法を作る時には、そのようなことは想定されていなかったのでしょうが、法なんてものは解釈、運用でどうにでもなる?

 

 

さて、明治憲法には、その一方で立憲諸制度も採用されており、これが日本の近代化に果たした役割は大きいと芦田センセは評価しております。

 

しかし、例えば権利・自由は保障されていたものの、それは人間が生まれながらに持っている自然権というものではなく、天皇が臣民に恩恵として与えたもの(臣民権)とされていました。

 

 

なんせ、天皇は神にして、最初から既に統治者(王様)なわけですから、そのような位置関係、上下関係があるということが前提の上での、自由であり、権利であったということになります。

 

 

天皇は、一般民衆が統治者として選んだのではなく、そもそもが神として最初から日本という国を統治していたのであり、一般民衆とすれば、気が付いた時には自分達は、天皇に統治されている臣民であった、ということになります。

 

 

 

これが、つまり、いわゆる日本の「国体」というものの基本的な概念でしょう。

 

なお、各権利は「法律の留保」、つまり「法律の範囲内において」保障されるものにすぎず、制限されたものでした。

 

 

 

つまり、為政者(政府)が、その統治に必要だと考えるなら自由や権利を制限する法律を作ることもできることになるでしょう。

 

為政者とすれば、民衆が好き勝手なこと(?)を言い出したら収拾がつかなくなるからと、これを抑えることが容易になります。

 

 

現在の中国ロシアといった国々などが、そのようなものであるように思われます。例えばの話「何でも自由に発言していいよ。ただし、政府の悪口はダメだよ」なんてねえ。

 

 

 

 

最近さらに言論統制を強めてゆく中国

 

 

 

統治機構においても、司法・立法・行政のそれぞれの機関は、あくまで天皇の統治を輔弼(ほひつ)、つまり補佐する機関として位置づけられ、権力を法で制限するという観念も希薄で、議会の政府や軍部に対するコントロールの力は弱かったのであります。

 

また、公選に基づかない貴族院衆議院と同等の機能を持ち、各国務大臣は天皇に対してだけ責任を負うだけで議会に対しては一切の責任がなかったのだとか。

 

 

そもそも、この明治憲法を作るにあっては、あくまで天皇の統治こそが主眼におかれていたのであり、それに基づいた憲法である以上、このような仕組みとなっていたのでしょう。

 

 

さてさて、芦田センセによれば、明治憲法が破棄され、それに代わる日本国憲法が新たに制定されたのは、GHQからの強い圧力もあったことも事実ながら、明治憲法それ自体にも統帥権の独立をめぐる問題など改正を必要とする内在的な理由があった、としております。

 

 

まあ、明治憲法からして、西洋列強の圧力を受ける中、言うなれば、日本が近代国家として認められるには、どうしても憲法を持つ必要があるなんてことで、「えいや」と強引に作り出してしまったとも言うべきものでしょうからねえ。

 

 

 

この辺りの事情は瀧井一博の『文明史のなかの明治憲法』(講談社)などを読むとよくわかります。

児島の『史録 日本国憲法』と同じく、ドキュメンタリータッチで、その成立プロセスが描かれております。

 

 

 

 

日本国憲法も、相当の産みの苦しみを経て作られたものですが、明治憲法もまた同じなのであります。

 

 

しかし、どんなものであれ、たとえその時はこれ以上のものは考えられないと思っても、時代が変わってゆけば、欠陥が見えてきたり、新しい時代とのズレが露になってきたりもするものなのでしょう。