東大で宗教学を教えていた脇本平也センセの『宗教学入門』(講談社)は、前にも書きましたが、初心者にわかりやすく書かれた宗教学の入門書だと思います。
今回は、そこから第一章の「宗教学の立場と分野」に沿って考えてみたいと思います。
まず、いきなり「信仰の導き」とか「人生の指針」なんてものを、この本に求めても、んなもなーない、とあります。
確かに、宗教の本と言いますと、まずもってそういうものが前面に出てくる本ばかりのように思います。生きる上にあって何か壁にぶつかった、迷いが生じた、人生いかに生きるべきか、なんて時に、大きな本屋に行きますと「宗教」のコーナーがあったりもしまして、そこにはもう、
いらっしゃーい。この本を読めば、明日からはあーたの人生はバラ色
なーんて語り掛けてくる本が大量においてあるはずです。
仏教、キリスト教、神道、他にもギリシア神話、老荘思想、新興宗教と、もうよりどりみどり。
ちなみに、あっしがよく行く本屋ですと「幸福の科学コーナー」なんてのがありまして、幸福の科学の大川隆法の著作が多数並べてあります。
やはり東大の学長まで務めたクリスチャンの矢内原忠雄センセは、その退任の時、学生に向かい「もし、諸君らの人生にあって、何か迷うことがあれば、我が門を叩くがよい(さらば開かれん)」なんて、聖書の言葉を引用して語ったとされますが、この先生の書いた『キリスト教入門』(角川書店)にしても、つまるところ、宗教書というものは、そういうものなんでしょう。
また、新聞広告でよく目にするのは親鸞の、というか、その弟子の唯円という方の書いたとされる『歎異抄』の解説書であります。これまた、「人間いかに生きるべきか」なんてことを説いているのでしょう。
いずれも、特定の宗教の入門書ということになると思います。そして、それは信仰の勧めであり、信者となることがその先にあるはずです。
さてさて、それこそ人生の指針を求めてなんて思った方が、そういう本に手を伸ばすというのは少なからぬためらいがあるように思います。
そのまま帰って来れなくなるんじゃなかろうか?
まあ、特定宗教に関わる、ということは信者になる、ということでして、当然にことながらそこで説かれている教義に従わなければならなくなるわけでして、少なくとも「物事を自由に考える」なんてことはできなくなるかもしれないですねえ。
例えばクリスチャンなら「使徒信条」なんてものの中にある、聖母マリアの処女懐胎だの、死んだイエスが復活した、なんてことを疑問を一切挟むことなく盲信(?)しなくてはいけません。
『歎異抄』を読んで浄土真宗の信徒になるというのなら、死んでから行けるという極楽浄土を同じように盲信しないといけない。
んなもの信じられるか
という方は、そこでもゲーム・オーバーです。門前払いを食らいます。
文字通り、天国の門も、極楽の門も閉じてしまい・・・、それに対し地獄の門が不気味な音を立てて開く、とか。
地獄の門?
まあ、宗教の中には、このようなことを言って不安を煽って勧誘するというところもありますからねえ。
さて、いよいよ、そういったものとは無縁の、あくまで純然たる宗教というものを研究する学問こそが宗教学なのだと脇本センセは言います。
これに対し、特定宗教にあっても、信仰を前提としたものとしてキリスト教なら神学が、仏教なら宗学なんてものがあると言います。
この特定宗教系の大学なんかの、例えば一般教養課程にあっては宗教と名の冠した講義もあるようですが、それは、まさに信仰が前提となったものだとされます。
ゆえに、例えばの話、あっしがミッション系大学の、そういった講義(※ 必須というところも多いとか)を受けて、
ミッション系大学の一つ 東京・青山学院大学
マリアの処女懐胎なんか、信じられっか
なーんて、レポートに書いて提出したりすると単位がもらえず、下手をすると退学処分になる?
(まあ、そういう奴は、ミッション系大学なんてものを最初から志望してはいけないのですが)
では、その純然たる宗教(学)を学びたい、特定宗教ではなく、そもそも宗教とはどういうものかを知りたい、なんて、いっそ「お前、何か変なもの食ったろ?」という変人は、どうすればいいのか。
大学にもよりますが、もちろん神学科、仏教学科なんてものもある所もありますが、一般教養としてなら、多くは文学部、文芸学部、人間(科学)学部、さらには哲学科、人文学科といった所で学べると思います。宗教学科なんて所のある大学もありますが、ごく少数です。
だいたい、宗教学なんてものを学んでも何の役に立つのか、それで飯が食えるのか、ともなりますとねえ・・・。
やはり趣味のレベルにとどめておくべきものだと思います。
ここで、脇本センセの示す、宗教学の定義というかスタンスを紹介しましょう。
1. 客観的事実を問題にし、主観的価値判断は避ける
2. 宗教を人間の生活現象の一局面としてとらえる
3. 特定の一宗教ではなくて複数の他宗教を資料として扱う
マックス・ミューラーという、イギリスの宗教学者によれば宗教学とは「宗教がいかにあるべきか」を問うのではなく「宗教が、いかにあったか」を問うものだとしているのだとか。
1は、要は「信仰ありき」、つまり信仰を前提としてはいけない、ということなのでしょう。
例えばの話、キリスト教の聖書を読むにしても「信仰ありき」で読みますと、キリスト教が説く教義に沿った解釈となってしまいます。
よく読めばイエスという方は、「愛」なんてことは説いていないのに、「イエスは愛を説いた」なんてことになってしまう。
続いて、2です。
これは、そもそも我々は自分達が生きているこの世界をどのようなものとして捉えているのか、捉えてきたのかを知ることだと思います。世界観を知ることだとも思います。
ごく身近な生活世界の中にも、様々な宗教的な要素を見出すことができます。仏壇に手を合わせる。墓参りに行く。初詣に行く。おみくじを引く。祭りを見る。
風習、慣習、規範といったものの中にも、そういう要素があると思います。
「お天道様の下、悪いことは出来ない」なんていうことがありますが、これも宗教の説く規範だと思います。
最後の3は、比較による宗教の相対化ということではないかと思います。
特定の宗教を、唯一正しいものとして絶対化してしまう傾向が少なくなくありませんが、これこそは妄信、さらには狂信になってゆくように思います。
これによって宗教戦争なんてものが起こったりもします。
様々な宗教を知るに、それこそ、そこには様々な世界観が見えてきます。しかし、そのいずれかが正しいとすると、それは信仰になってしまうでしょう。
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あっし個人は、宗教というのは、まさに世界観だと思っております。
そのような世界観を構築して生きてきたし、今もこうして生きている。
さらに、どういう方向に進んでいったらよいかを考える上にあっても、この世界観を知ることは大事なことのように思います。
例えば我々日本人は、自分たちを取り巻いている自然というものを重んじる世界観を持って来たように思います。
自然の中にあり、そこで「生きている」というよりも、「生かされている」と考えてきた。
これは自然摂理に沿った生き方をするということに繋がるようにも思います。
して、もし、これに逆らうとしたらどうなるか。
思うに、自然からしっぺ返しを食らうと思います。無造作に木を伐り、土砂災害に遭ったりもする。
アメリカのトランプさんは、大統領に返り咲いたら、現在のアメリカ自動車業界に対する規制を緩和する、なんて言っておりますが、地球温暖化が世界規模で問題になっているというのに、これに逆行する考えのようです。
短期的な、それこそ目先の利益だけに捉われるような方が、アメリカの大統領になったら、どーなるんでしょう。
神罰(?)を食らうことにはなりはしないのか。