八幡に天神、稲荷と、こういったポピュラーな神様なら、ごく身近な所に、これらの神様を祀る神社もあり、そのご利益もはっきりしております。まあ、最近は神社も多角経営(?)で、
なんでも叶えたるわい
なーんて大風呂敷を広げているようなところも少なくありませんが、本来は八幡なら武運長久、天神なら学問上達、稲荷なら豊穣や商売繁盛といったものでしょう。
日本における八百万の神様たちの中でも、こういうポピュラーな、誰でも知っている名の知れた神様たちの他に、あまり耳にすることのない神様も多数おります。
例えばアラハバキ神なんて、まず多くの方は「知らん」というような神様でしょう。関東から東北にかけて、ごく一部の神社の客人神(まろうどかみ)として、その境内の摂社(末社)という、小さな祠に祀られております。
宇宙人じゃありません。アラハバキ神です
東京近郊だと、埼玉の氷川神社にあります。
実は、元々は、この地の土着神だったという説があります。現在の氷川神社の主祭神はスサノオノミコトですが、元々はこのアラハバキ神ではなかったか、とされるのであります。
このように、今でこそ記紀神話に登場する神様が主祭神となっている神社が少なくありませんが、その多くは明治以降のことだとされ、それ以前は、その地域の人々にしかその名を知られていないような神様が祀られていたことも少なくなかったようです。
明治政府は、神道をもって、これを、それまでの仏教に代わる国教としようとして、それまでの神道、神社の体系を再構築します。神社整理なんて言って、多くの、それこそ名もない神様を祀る神社の多くが統合、もしくは廃社されてしまいます。
そして、記紀神話に登場する神様が、土着の神様を押しのけて、その神社の主祭神となったりもしました。
つまり、日本の神道、及び神社に祀られている神様は明治になって大きく変わったとも言えます。
それまでは地元の方々が、その土着の神様を祀っていたのに、今ではそんな神様はいなくなるか、脇に寄せられ、今度は記紀神話に登場する神様に祈願を行っているのであります。
もっとも、八幡、天神、稲荷なんて神様は記紀神話には登場しない神様で、こちらはずっと古くから人々に信仰されてきた神様であります。これらの神様、そしてこれらを祀る神社は別格でしょう。
さて、そんな様々な神様の中でも、記紀神話に登場するも、そこにおけるギリシア神話のような神々の様々な喜怒哀楽の物語を思わせるような有名な神様とは別に、なんだかよくわからんが、すんごく偉いらしい神様がおります。
それが造化三神、別天神、神世7代などと称される神様であります。
これらの神様を祀る神社もありますが、その歴史は浅く、一般民衆にとってすれば、それこそ、その名を聞いたことがないような神様と言えます。
これらの神様が具体的に何かをしたとか、また、そういった物語が全くないのであります。
ゆえに、研究者は、こういった神々は『古事記』などを編集するにあたり、意図的に新たに創作された神々ではなかったか、としております。
そんな神様のトップバッターとも言うべき方が天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)であります。
次に登場する高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)、神産巣日神(カミムスヒノカミ)とともに、造化三神と言われます。
さらに、宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコジノカミ)、天之常立神(アメノトコタチノカミ)が現れます。
以上を別天津と言います。
この後に登場する神々の多くが男女一対の神々(夫婦神)であるのに対し独神(ひとりがみ)なんて言われてます。
あんた達。一人で寂しくはないのかい
正直に言ってごらん。いい人紹介してあげようか
なーんて言いたくもなります。
その気になれば、とうのたった巫女の一人や二人・・・。
いや、あの、ヤマタノオロチに献上するような生贄ということではなく。
さてさて、まず、最初に登場する天之御中主神ですが、宗教学でいう宇宙樹、宇宙軸、いっそ座標軸の原点(O)のようなものだと考えられます。
なお、この神様は近世に入りますと北斗・北極星信仰、さらには仏教の妙見菩薩信仰と結びつき一体化した神様になっております。
明治になるまで、神と仏は混然一体化したものとして扱われることも多く、この神様、いっそこの一体化によって名を知られたということもできそうです。
次に、高御産巣日神と神産巣日神ですが、これはX軸とY軸(上下左右)を表しているとも言えます。
また、前者は別名を「高木神」と言いまして、ここから天をもイメージでき、後者は地をイメージできます。つまり、両者で天と地を表しているのではないかと思います。
この造化三神で、この宇宙空間、世界を示しているとも言えます。
つまり、これらの神様は何かを成すというのではなく、この世界を示すもの、と考えていいと思います。
また「産巣日(ムスヒ)」とは「苔むす」の、「むす」であり「生じる」、「生まれる」という意味であります。
天と地のいずれにも、霊的とも言うべき生成能力があるということなのでしょう。
して、これは後の伊邪那岐・伊邪那美の夫婦神に受け継がれるものと考えられます。
ただし、伊邪那岐・伊邪那美は、別天神の後、国之常立神から7世代目にある神で、これらを神世七代といいますが、伊邪那岐、伊邪那美が国産みを行う前準備を整えている神々という位置づけなのでしょうか。
なお、この神世七代の中に、宇比地彌神・須比智彌神、意斗之地神・大斗乃弁神なんて二組の夫婦神を示す絵を見ますに、下半身は蛇で首だけは人間と描かれておりまして、これは古代中国の神話に登場する女媧(じょか)なる女神に似ております。
なお、この女神は兄である伏義といっしょに人類を創造したとされます。
女媧と伏義
恐らくは、この古代中国の神のイメージを、古事記の作成にあたって取り込んだのではないかと思います。
さてさて、こういった神々は登場すると、すぐに消えてしまう、それこそ、わけのわからん神々であり、我々がよく知るのは、その最後に登場する伊邪那岐・伊邪那美の夫婦神だけのように思います。
先に書きましたように、これらの神様を祀る神社も数は少ないものの存在しますし、そのご利益も、特別に優れたものならともかく、よく知られた神々のそれと変わらないものが多いようですが、しかし、やはり、一般人には馴染みの薄い神様でしょうねえ。
あえて言えば、為政者の側で勝手に(!?)創作された神々であり、土着の神々のように、その地から、言うなれば自然発生的に生じた神様ではないのであります。
ゆえに、こんな神様を祀っている神社にわざわざ行って祈願をするくらいならば、いっそ、近所にある稲荷社のお宮(祠)に、油揚げでも捧げた方が御利益があるような気がします。
えっ、たまにはドンペリが欲しいって・・・。
また、かい。