あやしいキリスト教 イエスは愛の説教者ではない  あんた、そこに愛はないんか!? アイナシ | 日々の妄言、ざれ言、たわ言、世迷言

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思いつくことを適当に書き込んで行きます。まことしやかに書かれておりますが、何の根拠もありません。適当に読み流してください。

中学か高校の〇×試験で「イエスの宗教=愛の教え」とつなげれば〇がもらえる、なんて考えている、そこの・・・、

 

 

 

お前だ、お前。お前のことだ!

 

なーんて『イエスという男』の田川建三センセにツッコミを入れられたのは、思うに、あっしだけではないと思います。

 

 

不肖あっしは、日曜学校の皆勤賞ものの、クリスチャンならぬも、なんちゃって・クリスチャンですが、「イエス様の教えは愛の教え」であるということを叩きこまれておりました。

 

讃美歌にもありますように「慈しみ深きイエス様」であったのであります。

 

 

 

 

 

まあ、確かに人間なんてのは、しばらく付き合ってみないとわからないものでして、ひょんなことから意外な一面、あるいは本性ともいうべきものを垣間見させられて驚くことがあるもの。

 

 

まあ、何度も書いておりますがイエスの言行録ともいうべき福音書を読みますに、喧嘩ばかり売っていて、あまり愛なんてものを語っているようには思われません。

 

 

とは言っても、例えば、

 

 

汝、心をつくし、生命をつくし、思いをつくし、主なる神を愛すべし

また、おのれの如く汝の隣人を愛せよ

 

 

 

んて言葉がルカ書にはあります。

 

しかし、これは議論(喧嘩?)を吹っ掛けてきた律法学者が言ったものであります。

 

 

ついでに言えば、洗礼者ヨハネが「悔い改めろ。神の国は近づいた」と言っていた言葉も、いつしかイエスが言ったものにされております。

 

 

 

さて、田川センセによればイエス自身は「」なんて言葉はほとんど使っていないと言います。使ったとしても、それはそういった、神への愛、隣人への愛に対して批判的に批判しているだけだとも。

 

 

 

 

 

そこに愛はあるんか?

 

 

 

と言われれば、ない、ということなのか。

 

 

 

続いてマルコ書に、

 

律法の中で最も重要な戒めはどれか

 

 

と律法学者がイエスに問うという話があります。

 

イエスは律法にある「神への愛」と「隣人への愛」だと答えております。

 

 

して、これはイエスの主張ではなく、あくまで律法、つまりユダヤ教の説いていることであり、イエスはこれを引用したにすぎません。

 

また、田川センセは、ここで「自分にとって嫌なことは隣人に対してもするな」というユダヤ教の教えを紹介しておりますが、これなど『論語』にある孔子が説いた「己の欲せざる所は、人に施すことなかれことなかれ」にも通じるものでしょう。

 

 

隣人への愛とは、隣人と仲良くすることであり、自分がそうされて嫌だと思うことは他人にもするな、というのは人間が他者と協調しあいながら生きてゆく上での、普遍的な倫理規範だと思います。

 

 

こういうことができない方は、最終的には誰からも相手にされずその集団の中で浮き上がってしまい、最悪は排除されてしまうでしょう。

 

 

さてさて、このイエスと律法学者との議論はマルコ書やマタイ書よりもルカ書の方が元来のものだったと、田川センセは言います。

 

そこでルカ書を読みますと、まず律法学者の方がイエスに、恐らくは、最近はとかく人々の間で人気になっているらしいイエスの揚げ足をとってやろう、恥をかかせてやろうという下心が見えなくもないのですが「どうしたら永遠の命を受け継ぐことができるか」なんて言っております。

 

 

永遠の命を受け継ぐ」とは神に認められる、といった意味でしょう。人間としての望ましい生き方はどうあるべきか、と。

 

 

 

して、ここがイエスのずる賢い(?)所ですが、その質問には答えず「律法にはどう書いてある。あんた自身はどう考える?」なんて逆に問うのであります。質問を質問で返すという高等テクニックでしょう。

 

 

これに対し、この律法学者は我が意を得たりとばかりに、「神への愛」、「隣人への愛」という、それこそユダヤ教の基本教義、律法の理念をまくしたてるのであります。

 

自分こそは、まさにその実践者であり神に認められている人間なのだ、と言いたっかったのか。

 

 

言うなれば、神への愛、隣人への愛、なんてのはそれこそ基本理念、表看板のようなもの。どんな宗教だって、こういう基本理念を説いているものです。しかし、それこそ「言うは易く行うは難し」なのでありまして、こんな口先だけのことは誰にだって言えるもの。

 

 

 

 

愛を説く宗教も少なくありません

 

 

 

 

 

大事なのは、実際にそれを実践してこそなのであります。

 

 

高い壇上から偉そうに説教を垂れるという方も少なくないように思いますが、だったら、あんたが、まずそれを実践して見せてくれよ、と言いたくもなります。

 

 

イエスもまた、そんな思いをこの律法学者に抱いていたのかもしれない。

 

 

 

ところが、この律法学者、さらに畳みかけるように言います。

 

 

私の隣人とは誰なんでしょうかねえ

 

 

さて、この律法学者の言う「隣人」ですが、田川センセによれば、そもそもユダヤ教の世界でいう「隣人」とは「同胞」、いっそ「同志」のような意味なのだそうで、たまたま隣にいるような人を言うのではないのだとか。

 

 

 

 

 

スターリンにとって「同志」とは自分に都合のいい人間だけ(それ以外はシベリアに送り込みました)

 

 

 

 

またまた『論語』の孔子の言葉に「朋、遠方より来たる。また楽しからずや」というのがありますが、ここにおける「朋(友)」は、それこそ同志なのであって、ただの友人ではないのだとか。

 

 

さらにいますと、同じユダヤ民族とは言え、あくまで律法厳守している自分達のような人間に限られるのだとか。

 

ユダヤ民族とはいえ、律法もきちんと守らず、異邦人の血が混じったような人々の多い土地で暮らす、言うところの「地の民」なんて蔑称で呼ばれていた、この律法学者からすれば蔑むに値するような人間はそこには入らないとされたようです。

 

 

ちなみにイエスはガリラヤ出身ですが、このガリラヤからして「異邦人のガリラヤ」なんて言われていたようで、エルサレムを中心とした、それこそ純粋なユダ多民族とされる人々からすれば、イエスもまた、この律法学者の言う「隣人」には入らなかったのかもしれないです。

 

 

して、イエスはこの言葉にカチンときたようです。

 

 

 

この野郎、偉そうにタテマエ論ばかり並べやがって

おらー、そういう杓子定規な野郎はでーきれいなんだよ

 

 

 

そこでイエスは言います。

 

 

あんたさー、最近あったというこんな話を知ってるかい?

 

 

 

と、これが有名な善きサマリア人の話であります。

 

して、これは田川センセに言わせますと、ユダヤ教が説いておりました隣人愛(それも狭い意味での)に対する批判として語られたのだとか。

 

 

つまり、後のキリスト教が、これぞとばかりに説いている「誰にでも平等に愛を」といった博愛を説いたものではないんですねえ。

 

そんな歯の浮くような甘っちょろい博愛精神なんてものをイエスが言うはずもない?

 

イエスという方、どうも、相当ひねくれた(?)方であったようです。いっそ、性格が悪いのかも。

 

 

 

こういう博愛の精神なんてのが、キリスト教の教義になって、例えば宣教なんて名のもと、西洋社会が行った植民地政策の洗脳機能を果たしたのではないのか。

 

要するに、本来であればそんな搾取するような西洋人に対し、歯向かわぬよう牙を抜くように博愛の精神を押し付けてきた?

 

 

 

差別されていたサマリア人だって、このようにイエス様はその博愛の精神を認め評価されているのであって、あーたがた奴隷だって救われるんですよ。(死んでから、だけど・・・)

 

 

 

 

実は、キリスト教の洗脳本だった!?

 

 

 

キリスト教なんて言いますと、それこそ博愛の宗教なんて言ってますが、こういった植民地政策の先鋒になって原住民を洗脳していったり、生々しい異端審問魔女狩りなんてのの歴史を見ますに、相当にどすぐろい部分を持っております。

 

 

まあ、実際には、いくらそこに優れた宗教的理念のようなものがあろうと、その宗教を自分達に都合のいいようなものとして操ってきた人々がいたわけです。

 

博愛」の精神なんて言いますが、その使い方では人を傷つけたり、いっそ殺したりすることもある。

 

 

 

オウム真理教の麻原尊師だって、その説いていた教えは尊いものであったのでしょう。しかし、地下鉄にサリンを撒かせ、何人もの方が亡くなったと聞いた時「ポアされた方の魂は、これで天に昇ったんだから、よかったねえ」なんて言っていたとされますが、愛なんてもなー凶器にもなる、と。

 

 

 

さて、話を戻しまして、このサマリア人の話の前半は、そもそも、同じ「隣人」であるはずの祭司(※ レビ人も下級祭司だとか)、つまり、律法学者が言うところの「隣人」は、いずれも見て見ぬふりをしていってしまった、と。

 

 

 

よくある話のような気もします。

 

 

普段から「友人」だの「同胞」だの「同志」なんて言っているものの、いざとなれば手のひらを返したように素知らぬ顔をする。

 

大事にするべき友と、捨てるべき友の区別がつくようになったら、もう自分の人生は終わりかけている」なんて詩がありましたが、それこそ「自分が苦しんでいる時に手を差し伸べてくれる人間こそが友人」と呼ぶべきなのです。

 

 

例えばの話、「同胞」なんて言っていた日本人が助けてくれず、ヘイトをしていた在日(朝鮮)の方が助けてくれたらどうか。

 

 

同じ日本人だから、同じ~だから、というのではなく、「苦しんでいる時に手を差し伸べてくれた人」こそを「友人(隣人)」とすべきなのではないのか。

 

 

 

 

 

 

 

そして、それは同じ日本人かもしれないし、在日の方かもしれない。

 

 

 

イエスは愛なんてことは説いていません。

 

しかし、このサマリア人の譬え話は、我々が生きてゆく上にあって極めて大事と思われることに気づかせてくれます。

 

 

ゆえに、大したお方だと、あっしは思っております。

 

 

 

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イエスの大将、今月は厳しくって。給料日もずっと先だし・・・

少し、金を貸してもらえませんかね

 

 

 

 

 

 

 

いいともよ

アイフルに知り合いがいるんだ

オレの紹介で行けば少しは金利を下げてくれるよ

 

 

 

・・・・・・・・・。

 

 

(そこに愛はあるんか?)