『史録 日本国憲法』 窮地に追い込まれる近衛公爵の真意 国体の維持よりも天皇の存続? | 日々の妄言、ざれ言、たわ言、世迷言

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思いつくことを適当に書き込んで行きます。まことしやかに書かれておりますが、何の根拠もありません。適当に読み流してください。

近衛公爵のスタンドプレーのようなマスコミに対しての発言に、怒り心頭の松本国務相は、温厚な(? というより、自身でも言うように老体に鞭打っての御奉公を自認している)幣原首相をもひるませ、その調停に彼を宮城にまで走らせます。

 

 

して、近衛公爵といたしますと、自身が戦争犯罪人とされかれない状況にいるわけで、外国、特に米国の記者に会うのは、その情報収集と同時に、天皇制の行方であったようです。むろん、天皇制というか、国体の維持こそは松本国務相及び政府首脳の関心事ではあるわけですが、近衛公爵とすれば、いっそ、国体よりも天皇こそが大事ということ?

 

 

この辺りが、近衛公爵と政府首脳部との微妙に異なる点でしょう。

 

 

おりしも、新聞、一部の知識人、さらにはオーストラリア、ソ連といった国々も、天皇制、さらには天皇その人に対して批判的であったのであります。

 

 

天皇も戦争犯罪人にされかねない?

 

 

 

極東裁判

 

 

 

それだけは何としても阻止したい。これが近衛公爵の最大の関心事であったようです。

 

 

そんな近衛公爵のグループは、憲法改正草案作りのために、近々箱根の旅館に逗留する予定の佐々木惣一博士を交えて夕食会を行います。

 

この席で、グループの一人である白洲次郎が、どうもGHQは憲法改正を急がせたいらしいと感じていたのか、佐々木博士に、そのことを告げると、佐々木博士は「かりにも一国の憲法を吟味するのです。簡単にお考えになっては困ります」と言い返したのだとか。

 

確かに佐々木博士の主張はもっともなことでしょう、

 

 

しかし、今この状況にあってはそんな悠長なことは言っていられないことを、この方は理解しておりません。あくまで、純然たる学者としての、それはそれでりっぱな態度なのではありますが。

 

 

(余談ですが、児島は白洲を「江戸っ子」としておりますが、白洲は神戸生まれ、神戸育ちの関西人のはずです。)

 

 

GHQが、憲法改正を急がせるのは、ぐずぐずしていると、アメリカ本国、さらにソ連をはじめ、他の国々が口を挟んでこないとも限らないわけで、そうなると収拾がつかなくなる、ということであったようです。

 

 

そして、それは結果として、例えば天皇制を廃せといった極端なものとなりかねず、マッカーサーとしては日本人と天皇の関係を、それなりに理解しており、自身としては存続させる、実際その方が占領政策がやりやすいであろうという考えもあって、日本側とはまた違った思惑があって、このまま日本自身に憲法の改正を任せかったとも考えられます。

 

 

悲しいことに、日本はそんなことにまで考えが及ばなかった。

 

 

何度も書いておりますが「歴史に、もし、はありえない」と言われますが、あえて、もし、例えばソ連などが、天皇や日本の憲法改正にまで強く絡んできていたらどうなっていたか。

 

 

天皇は退位し、天皇制は廃され、日本という国が、それこそドイツのように東西に分割されてしまうことだってありえたのではないのか。

 

皮肉な話ですが、そういう意味では、当時、もっとも日本の理想的な未来を望んでいたのは他ならぬアメリカ、というか、マッカーサー率いるGHQと言えるかもしれない。

 

この方に対する我々日本人の評価は決して良いというものではありませんが、もしかしたら、この方は日本という国の恩人ではなかったのか?

 

むろん、マッカーサーが心底から日本のことを思ってというのではなく、あくまで彼自身が、そしてつまりはアメリカが自分の国にとって、そうなった方が望ましいと考えていたからだとは思いますが。

 

 

安保体制だって、あれは、つまるところアメリカのためのものでしょう。

 

 

 

さて、松本国務相の怒りに動かされた幣原首相の調停もあってか、近衛公爵は松本国務相と直談判することになります。

 

ここで松本国務相は、政府側の主張を強く主張します。

近衛公爵は、素直に聞いていたとされます。

 

 

これで一応は、松本国務相の主張が通ったことになります。

 

 

 

この後、近衛公爵の、記者にも語っていたという天皇の退位についての考えが明らかになりますが、その内容は興味深いものがあります。

 

 

 

いっそ、退位して、仁和寺、あるいは大覚寺に御入り遊ばされ、戦没将兵の英霊を供養遊ばせるのも一法だ

ボクもその時は御供する

 

 

 

仁和寺(真言宗)

 

 

 

仏門に入るということなんでしょうか。

また、白洲に言った言葉も興味深いです。

 

 

 

陛下は退位して、ついでに京都にひっこんだほうがいい

いままで、なぜ皇室が何百年も続いたと思うんだ。京都にいて国民の大部分が天皇の存在を知らなかったから続いたんだ

天皇家が京都に行けば、京都の連中なら、あ、テンノーさん、お帰りやした、といって、そっとお迎えするだろう

 

 

かつて、京都の人々は皇室にあって子供が生まれたりするとお祝いを持ってゆくこともあったのだとか。

しかし、明治以降、一般庶民がそんなことをするのは畏れ多いこととして禁じられてしまったとされます。

 

 

すると京都の人々は「テンノーさんも、出世されはって・・・」とため息交じりに語ったのだとか。

 

 

明治なって「天皇が出世した」というのも、笑えます。

 

 

 

改めて思うんですが、明治になるまで恐らくはほとんどの日本人が、その存在ぐらいはうわさ程度(!)で知っていたとは思いますが、天皇なんて方は、雲の遥か上の存在であったはずです。

 

 

そんな方に敬意も親しみもいだくこともなかったように思います。

 

 

 

伊勢神宮だって、明治になって皇祖神であられる天照大御神がおわす、皇室ゆかりの神社にして、一般庶民が家内安全だの無病息災だのという、つまらん祈願をするような所ではない、なんてされましたが、元々ここは「お伊勢さん」などと言われ、一般庶民から親しまれていた神社だったのでありまして、その天照大御神が、皇室、つまりは天皇の祖先神だなんてことを知っていた人間がどれだけいたのか。

 

 

 

 

江戸時代のお伊勢参り

 

 

 

 

つまり、現在の我々日本人の心にも浸透しております天皇観というものは、明治になって作られたものだと言えるでしょう。

 

 

天皇も、言うなれば諸外国における「」と同じものだとしても、その王(制)が、形式的なものとなったことこそあれ、一度も廃されることもなく続いてきたということは、ある意味すごいことでしょう。

 

 

お隣中国なんかを見ても、歴史的には幾つもの王朝が交代しております。

 

 

とは言え、近衛公爵の思いは、国体の維持でも、天皇制の存続でも、いっそ国民(※ 当時は臣民)の安泰でもなく、ただ天皇のことだけと言えるでしょう。

 

 

その想いは純粋なものだとは思いますが、仮にも日本という国のトップに立ったこともある為政者である近衛公爵は、国やその国民に対しての思いや責任というものが見えてきません。

 

そういう方が、歴史的な、あるいは、その時の政治的な思惑から日本の国のトップに立ったということは、その国民にとってすれば好ましいものであったとは、到底言えないでしょうねえ。

 

 

いざとなれば、自分だけさっさと逃げ出す。

 

 

何度も書きますが、「すべての責任は自分にある。だから、自分はどうなっても構わない」と言って、聞いていたマッカーサーが思わず襟を正したという昭和天皇との違いが明らかです。