あやしいキリスト教 田川建三『イエスという男』 歴史の先駆者? いっそ反逆者? だから殺された | 日々の妄言、ざれ言、たわ言、世迷言

日々の妄言、ざれ言、たわ言、世迷言

思いつくことを適当に書き込んで行きます。まことしやかに書かれておりますが、何の根拠もありません。適当に読み流してください。

キリスト教ではなく、歴史上に生きた一人の人間であるイエスの実像に迫るといえば、やはり新約聖書学者である田川建三の『イエスという男』(作品社)でしょう。

 

 

 

 

 

 

キリスト教児童洗脳システムである日曜学校なんてものに、ほぼ皆勤賞もので通いながら、洗礼を受ける直前に転んだという瑕疵(かし ー 傷)をもった、いっそ「こいつはアホウだからだめだ」と、向こうからさじを投げられたと言うべき、それこそ出来の悪い落ちこぼれ野郎のあっしが、長じて欧米の小説を含めた本を読むうちに、西洋文化を知る上にあっては、どーしても必要最低限のキリスト教の知識が必要であることを痛感し、改めてキリスト教の解説書を探していた時、たまたま手にしたのがこの本であります。

 

 

まず、そのタイトルである「イエスという男」に度肝を抜かれました。

 

 

普通は、「神の子イエス」、「主なるイエス様」、「救世主イエス」、「イエス・キリスト」といった、敬称や尊称が付くんですが、ただの「」ですよ。

 

 

 

 

なんじゃ、こりゃ!?

 

 

でしたねえ。

 

 

働いている男」、「強い男」、「悪い男」、「無責任な男」、「第三の男」・・・、といった、それこそ、そこら辺にいる男の扱いです。

 

 

日曜学校で、落ちこぼれ、出来の悪い子であったとは言え、「門前の小僧、経を読む」じゃありませんが、それでも一応は洗脳されていましたから、やはり「イエス・キリスト」という尊称でないと、しっくりこないのであります。

 

 

 

さらに、本を読んで再び、

 

 

 

なんじゃ、こりゃ !? ×2

 

 

 

でしたねえ。

 

 

なんせ、7年間(※ 保育園、小学校)、キリスト教は聖公会(英国国教会)の司祭他、信者の人たちから「慈しみ深く、深い愛情を持ったイエス様」なんてことを耳にタコができるくらいに聞かされてきてますから、そのイメージとしては、いっそもう奈良は法隆寺の弥勒菩薩像のごとく、優しい微笑みを浮かべたお方でしたからねえ。

 

 

あるいは、「心配するな、極楽往生させたる」と、やさしく言ってくれるような阿弥陀仏のような。

 

 

 

しかし、この本に登場するイエス(という男)は、それこそ、

 

 

 

 

神殿で暴れるイエス

 

 

 

喧嘩上等!

誰とでも勝負したるわ

 

 

 

という、いっそ、ツッパリ、ヤンキーだった!?

 

怒れる男、イエスです。

 

 

その母親であるマリアが戸惑っていた、というのもよくわかります。

 

 

 

おめーんとこのバカ息子が、往来で、また

わけのわかんねーことほざいてるぞ

 

 

 

なーんて言われて、

 

 

 

ったく、うちのバカ息子は恥知らずで

世間様に顔向けができやしない

 

 

 

なんてありますからねえ。

 

 

以下、何だか知りませんが、当時のユダヤ社会にあって怒りの爆弾(?)を抱えていたらしいイエスという方の実像(?)らしき姿に迫ってみたいと思います。

 

 

 

余談ながら、70年代の日本の学生運動にあっての、怒れる若者たちにも重なります。

 

 

 

 

全学連 ヘルメットをかぶった学生たち

 

 

この時代、学生運動は言うなれば麻疹(はしか)のような伝染病のようなものであったらしく、あっし自身は『イチゴ白書』なんてクソくらえの、それこそ、ヘタレのノンポリでしたが、あっしがいた大学でも、なぜか期末試験の頃になるとヘルメット姿のあんちゃん、ねーちゃんたちが騒いでましたねえ。

 

 

 

さて、田川センセの本の第一章は「逆説的反抗者の生と死」というものであります。

 

まず、いきなり、

 

 

イエスはキリスト教の先駆者ではない

 

 

 

なんて衝撃的な言葉から始まります。

 

先駆者ってのは、つまり教祖ってことなんでしょうか。

 

 

なるほど、先回も書きましたが「パウロなくしてキリスト教なし」なんて言いまして、思うに、実質的な意味でのキリスト教の教祖は、このパウロでしょう。

 

ゆえに、「キリスト教の教祖はパウロで、開祖はイエス」なんてことも言われるようです。

 

 

 

して、イエスは歴史の先駆者だと言います。

 

 

イノベーター(革新者)ということなんでしょうか。

 

 

なるほど、歴史を見ればそういう方々がいたことはわかります。既成の秩序、価値観、社会、世界観なんてものをひっくり返してしまうような方。いっそ革命家ですかねえ。

 

 

 

して、そういう先駆者は、まず殺されるのだとしております。

 

まあ、既成秩序をひっくり返そうなんて方は、まずもって危険分子、反乱分子、反逆者とされ排除、いっそ殺されるでしょう。洗礼者ヨハネなんかがまさにそうではないかと思います。

 

 

 

イエスもまたそういう人であった?

 

 

パウロが言っているような、人々(歴史を超越した全人類?)の罪を一身に背負って、自ら死を選んだ(贖罪)わけではないのだ、と。

 

 

しかし、そういったイノベーターは、まずもって歴史には残らないのだとされます。まあ、そうでしょうねえ。

人々の記憶から抹殺されてしまう。

 

しかし、そのイノベーターの性格が非常に強かったがゆえに、あるいは何かの偶然でその記憶が残ってしまうこともある?

 

 

その場合は、今度は抱えこもうとするのだそうです。イエスをキリスト教の教祖(開祖)にしてしまったのはそういうことなんだそうです。

 

 

ふと思い出したのは、日本の、当初は怨霊として恐れられていた菅原道真が、後には学問の神(天神)として祀られたことでしょう。朝廷に反旗を翻し、乱を起こした平将門も、これまた当初は怨霊として恐れられていましたが、後には関東の守護神となり、東京は神田明神の祭神に祀られております。

 

 

 



 

この作品は平将門の怨霊がテーマです

 

 

 

いずれも、怨霊を上手いこと煽てて、お神酒なんかを捧げて、その牙を抜き、守護神に祀り上げてしまえば、今度はご利益をもたらしてくれる?

 

災い転じて福となす」じゃありませんが、なかなか上手いことを考えたものです。

 

 

 

イエスもまた怒れる男から、いっそ仏様のような温和なお方になってしまった?

 

それも、牙を抜くというよりも、骨抜きだそうです。

 

 

 

 

そういや、芥川龍之介の『侏儒(しゅじゅ ー 小人)の言葉』という警句集の中に、

 

 

 

その時代は天才を殺し、次の時代は、その天才を崇め讃える

 

 

 

なんてのがあったような。

 

 

ソクラテス然り、イエスもまた然り、ってことですかねえ