クリスチャンになるためには「使徒信条」というものに従わねばなりません。
宗派によって若干の違いがあります
一読すればわかりますが、「処女マリアより生まれ」なんて、どー考えたって自然摂理にそぐわない話はともかくとして、それで生まれたらすぐにも十字架に付けられて死んでしまってます。
その生涯に何をしたか、何を言ったのか、なんてこたー何も書いてありません。
そして、死んだあと、三日目に蘇って(復活して)天に昇った、とあります。
つまるところ、キリスト教というのは、このような不思議な話を信じろ。そうすれば、あーたも死んでもイエスと同じく復活して、天に昇れるかもしれないよ、という教えということになるでしょう。
なんだかよくわからんが、とにかく信じれば死んでも生き返ることができる、そして天国というユートピアに連れて行ってもらえるのか
今はのきわになると、枕元に美人の天使が降りて来て「天国に連れて行ってあげる!」なんてなー
たまんねーなー
太宰治の言葉じゃないが「死にたくって、うずうずしちゃうな」だよな
南無阿弥陀仏と唱えれば極楽往生できるって言うが、こちらはどうも線香臭くっていけない
それに極楽よりも天国の方がハイカラな響きだしなー
して、イエスの言行録ともいえる福音書を読む限り、イエスその人はんなことはなーんも言っておりません。
実はこれ、自称イエスの弟子と勝手にほざいているパウロという方の言っていることです。
「パウロなくしてキリスト教なし」なんて言われます
この方、「もし、そうだったらいいなあ」という願望を、「きっとそうなる」という狂信(!)にしてしまってます。
文字通り狂信者(パラノイア)です。
願望から狂信へ。この一線を超えると、これはこれで幸せにはなれます。言うところの「信じるものは救われる」なのであります。
矢内原忠雄の『キリスト教入門』という本の中に、結核で、もはや臨終という方が「自分は神を信じているから、これで救われる。感謝です」と言いながら亡くなっていったという話がありましたが、まさに救われたのでしょう。
少なくとも、その死の直前の意識においては。
その後のことは・・・、死人に口なしですから、実際にはどーなったのかを聞くわけにはゆきません。
昔の歌謡曲の歌詞に「嘘なら、ずっとだまし続けて」なんてーのがありましたが、いっそ、なーんも知らん方が幸せということだってあると思います。
さて、キリスト教といっても、このようにパウロという方の独自というよりも勝手な神学、あるいはこの方自身の考える倫理道徳観、さらには『ヨハネの黙示録』に描かれる、何だかよくわからない、おどろおどろしい終末論なんてものは、いっそ無視します。
さらに、キリスト(メシア)とか、神の子であるとか、いった余計な尊称も取っ払い、歴史的に存在したイエスという方にだけスポットを当ててみたいと思います。
ルオー『キリストの顔』
いったい、この方は何を言い、何をしたのか?
パウロなんかの余計な神学が絡んでキリスト教というものは複雑怪奇なものになっておりますが、そもそもキリスト教の根幹はイエスの説いたこと(思想)であると思います。
それが、やはり少なからぬ人々の心を捉えたからこそ、その言動が人々に記憶され、文字によって残され、それが福音書、さらには新約聖書となって我々に受け継がれてきたと言えるでしょう。
キリスト教の解説書を幾つか読みますに、キリスト教という巨大化した宗教の方に目が向けられていて、イエスその人の言動にあまりスポットが当てられていないように思います。
ゆえに、以前、あっしはオウム真理教をもじって「イエス真理教」なんてタイトルで、イエスその人についてのみ考えてみたことがあります。
今回は、さらに深めてみたいと思います。
イエスといいますと、慈悲深く、優しそうなイメージが思い浮かびますが、確かにそういう面もあったのかもしれませんが、福音書を読む限り、どうも「喧嘩上等!」という怖いオッサンのイメージがします。
売られた喧嘩は買うぜ
というスタンスで、いっそ、イエスの方から喧嘩を売っているような場面も少なくありません。
して、ではイエスという方は何が気に入らなかったのか?
おじさんに、なんでも話してごらん
悪いようにはしないから
って、もんですねえ。
(あんたは生徒指導の先生か?)