何度か書いておりますが、あっしは以前、とある女性が、あっしの顔をつくづくとながめ、ため息をつきながら、
男は顔じゃないのよねえ
と、しみじみ言われた経験がある男であります。一応、褒め言葉であると解釈しておりますが。
学生時代の、今は親友となっている男は、最初にあっしを見て「怖い顔をした奴がいる」と思ったとされる男でもあります。
ゆえに、言わずもがなですが女性にモテたなんてこたーありません。タレントのヒロシの自虐的漫談の中に「男なら誰でもいい、という女性にフラれました」なんてのがありますが、まあ、そういう男であります。
ついでに言えば、根本的にファッションセンスがないのか、これまた別の口さがない友人から、あっしとしては精いっぱいのおしゃれとして着てみたユニクロの服を着ていた時、
言っちゃ悪いが、お前は何を着ても似合わねーなー
なんて言われたことがあります。
とーぜんのことなんでしょうが、ユニクロが悪いわけではないと思います。
一方、ムンクという方は端正な容貌の持ち主で(いわゆるイケメン)、背も高く、服装にも気を使うダンディな男だとされます。
ムンク 『自画像』
そんな男であれば、これはもう、女性が放っておくわけがなく、事実、幾度となく浮名を流し、なおかつ、彼の絵のモデル志願者も後を絶たなかったのだとか。
あたしをモデルにして
なんなら・・・、その後は、好きにしていいのよ
ということであったのか。
書いていて、なんと言いますか無性に腹が立ってきますねえ。
あっしなんぞは、そんな気なんぞは全くなく、何かの拍子にちょっと女性に触れようなものなら、
いやらしいわねえ。セクハラで訴えるわよ
なんてことになると思いますから。
さて、そんなモテまくっていたというムンクですが、生涯を独身で過ごしました。して、彼は決して女性が嫌いだったということでもないようでして、思うに、これはあっしの勝手な想像ですが、モテるがゆえにこそ、女性の男性に対して持つ独占欲、所有欲、いっそ支配欲というものに怯え、かつ嫌悪したのではないかと思います。
男が女を求め、女が男を求めるのは、これ何らおかしなことではなく、自然の理(ことわり)、自然摂理でしょう。
これをもって、人間を含めた生物一般は子孫を存続してゆけるのであります。
進化生物学的にシニカルに言うなら、愛なんてもなー幻想でして、究極の目的は子孫の存続であります。いっそ、愛なんてものがなくたって、それは可能なのであります。
それではあまりに寂しいというので、人間は愛なんて怪しげな(?)幻想、いっそ妄想を作り出したんでしょう。
ゆえに、女性にとってすれば、自らの子孫(もっと言えば、その遺伝子)を存続させるために、介在者、いっそ協力者としての男性を求めるのであり、極端なことを言えば相手である男性は、その目的達成の手段であるともいえます。
むろん、これは男性からしても同じで、日本にはかつて「借り腹」なんて言葉がありました。
今でいえば代理出産でして、例えば高貴な身分の奥方様が子ができない、なんて場合、側室とか妾なんかに子を産ませ、その子を、奥方との正式な子として認知するのであります。
ムンクは、女性は素晴らしい存在だと称賛する一方で、男を餌食にしているといってののしったとされます。
女性をいとおしいと思う、その反面、恐怖と憎しみを抱く。このアンビバレンツ、つまり双方に引き裂かれた複雑な感情。
つまるところ、ムンクに群がった女性たちは、ムンク自身を愛するというよりも、ムンクを介在にして己の生物としての子孫存続という欲求を叶えたいと思っていると、彼は無意識のうちに感じていたのか。
まあ、普通の男女は、そこまで深く考えることもなく、「愛してるよ」、「あたしもよ」なんて、甘い幻想に酔いしれ、自然摂理に素直に従っているんでしょうが、そして、それはそれで望ましいことなんでしょうが、モテる男であるがゆえにムンクは、そこに何か違和感のような、納得できないようなものを感じていたのでしょうか。
あえて言えば、そんなふーに、つまらん(?)ことを考えるから、結果としては子孫が残せないことになってしまうのであります。今、少子化が危惧されておりますが、ムンクのような人間が増えているのかも。
ムンク 『マドンナ』
恍惚とした女性の表情、周りには精子(!)が描かれ、左側の下には胎児がおり、これは受胎の瞬間を表したものだとされます。
しかし、全体的には不吉なムードが漂い、死をもイメージさせる不気味ともいえる絵であります。
さて、フランス語には「ファム・ファタル」という言葉がありまして、通常は「運命の女」なんて言われますが、実質的には「魔性の女」なのだとか。
フランス文学者の鹿島茂に言わせますと、フランス語独特の、鼻にかかった発音で、この言葉が発せられると、多くの男たちはコーフンを抑えきれなくなるのだとか。
男を魅了する、いっそ、狂わせ、その人生すらも破滅させかねないような妖しい魅力を備えた女性なのだとか。
ムンクのこの「マドンナ」も、またそういう魔性の女をイメージしていたのかもしれませんねえ。
ついでながら、この魔性の女というテーマは、19世紀に流行したものだそうで、他にも、フランツ・フォン・シュトウックの『罪』なんて作品があります。
シュトウック 「罪」
黒い衣服をまといつつ、胸を露にし、さらにその首には大蛇がまとわりついているという不気味な絵であります。
蛇と罪ということから、旧約聖書の『創世記』のイブをイメージしているともされます。
ねえ、おいしいのよ。食べてみて
なーんて言いそうですねえ。
なんだよ、リンゴ(禁断の実)なんて、持ってねーじゃねーか
なんて言うと、
やーねえ、あたしよ、あたし
なんて言ったりもする?
繁華街の裏通りの、暗がりで、そこにいた妖しげな女性が、
天国に連れて行ってあげるわよ
なーんて言うのと同じなのかも。
天国にったって、エホバの証人とかの勧誘ではないと思いますが、して、天国に連れて行ってもらえるのはいいんですが、そこから帰ってこられるんでしょうか?行ったきり、ということになるのでは・・・。
ムンクの絵も、シュトウックの絵にも、何か、不気味な死の匂いがします。
秋に、川を遡上した鮭の雄と雌は産卵に、文字通り命を懸け、そのまま死に至ります。
フランスの異色な思想家、J・バタイユが、その著である『エロティシズム』の冒頭に書いているごとく、
エロティシズムは、死に至るまでの生の称揚
なのであります。
めくるめく、愛の抱擁なんて言ってるが、その覚悟があるのか?
そこんとこはどーなんだ、と。
いっそ、男女ともに南無阿弥陀仏とでも唱えながら、その称揚に酔うべきではないのか。