洗礼(パプステマ)は教会の一員として認められ、キリスト教徒として生き始める一歩だとされております。
宗教学的には、イニシェーション(通過儀礼)でしょう。
これはキリスト教に限らず様々な宗教や社会にも見られるもので、例えばユダヤ教では割礼などがそうでしょうし、仏教なら頭を丸め受戒と呼ばれる儀式をもって正式な僧侶の資格を得ます。それまでの悪を懺悔し、心を清め、沐浴し、清潔な衣を身にまといます。
神道における、精進潔斎や禊(みそぎ)もまた同じでしょう。ただし、これはその都度行うものです。
祭礼の前に行う禊
これに対し、洗礼や受戒はたった一回だけです。
七五三や入学式、卒業式、成人式、そして入社式なんて言うのも基本的には一回限りの通過儀礼であります。
南太平洋のバヌアツ共和国のバンジージャンプなんてのもそうでしょう。
これこれは、言うなれば成人になるための儀礼、成人式でしょう。
ヴォーボワールは、その著である『第二の性』の中で、「女は女に生まれない。女になるのだ」なんてことを書いておりますが、そしてその意味は社会学的なもののはずですが、生物学的な意味にあっては、初潮を迎えた時もまた「少女」から「大人の女性」になるのだと言えます。
日本では、かつて、これを「腰巻祝い」なんて言いまして、女性の実質的な成人式であったのであります。
これに対し男は「ふんどし祝い」なんてものがありまして、年齢的にも13歳から15歳に達した時に行われました。武家社会だと元服ですねえ。こちらは11歳ぐらいから行われたようです。
なお、日本では、2022年の民法改正により、それまでの20歳ではなく、18歳をもって成人ということになっております。ちなみに、天皇、皇太子はそれ以前から18歳をもって成人ということになっておりました。
余談ながら、男女の場合にありましては、俗的に性的な初体験をして「男になる」、「女になる」なんて言うこともあります。
おニャン子クラブなんて、ふざけた名前の女性アイドルグループが『セーラー服を脱がさないで』なんて歌ってましたが、その中で「エッチをしたいけど」なんてありましたが、これがまさにそういうことなんでしょう。
なお、続けての歌詞に、
もったいないから・・・、あげない!
なんてありまして、男といたしましては、その気にさせておいていざとなったら「ダメ!」じゃねえ。
ナメとんのか、このアマー!
って、もんでしょう。
なお、男の場合は俗に「筆おろし」なんて言います。
昔は、地方によっては成人儀礼の一環として、後家さんなんかがこれを手伝って(?)くれたのだとか。
して、その内容はと言いますと・・・、(大丈夫かいな。検閲に引っ掛かるとか)
二人で、そろって無人のお宮、もしくはお堂に行きまして、そこに仏像なんかがあれば、まずこれに祈りを捧げ、その後は女性の方が手取り足取り、そのマナーやテクニックを一通り教え、ことが済むと、再び神仏に祈りを捧げ、その後は一切他言無用にして、あと腐れのない状態で赤の他人となります。
実際には、その前段階として男女は一定年齢になりますと「若衆(者)宿」、「娘宿」なんていう合宿所のようなものがあり、そこで先輩から、それぞれ一人前の男や女としての在り方を学ぶのであります。筆おろしは、その仕上げのようなものなのでしょう。
話を戻しまして、洗礼ですが、これは水によってそれまでの罪を清め、見えざる神の力によって生まれ変わることとされます。
カトリックの幼児洗礼
基本的には、日本の禊(みそぎ)と同じでしょう。
あえて言えば、古い自分を脱ぎ去って、いっそ、古い自分は死んで、新しく生まれ変わるというべきか。
生まれ変わるわけですから、新たな名前を付けます。これが洗礼名であります。
洗礼名は成人の名前から選びます。また、代理父、代理母を立てるということもありまして、これが言うところの「ゴッド・ファザー(マザー)」なのであります。
なお、この代理父母なるものは、日本の古い慣習にもあったとされます。こういう方が仲人になったりもしたようです。
さて、この洗礼は言うまでもなく、イエスが洗礼者ヨハネから授かったものに端を発しております。
アンドレア・デル・ヴェロッキとその工房 『キリストの洗礼』
(左端の天使はレオナルド・ダ・ヴィンチによるものです)
日本の禊もそうですが、つまりは、悪を汚れとして水で洗い流すことこそが洗礼であり、当時のユダヤ社会にはこれを宗教的な儀礼として捉える人々がいたらしく、洗礼者ヨハネのグループ以外にも、ナゾライ人、マンダ教徒、朝の洗礼者なんていう名のグループもあったようです。
して、神道などもそうですが、その罪(汚れ)を洗い流すのはその都度行うとされていたようですが、ヨハネの場合はたった一度でよいとされていたところが独創的であったようです。つまり、基本的には、一度悔い改めたらそれでもう十分だということだったのでしょう。
なお、当時のユダヤ教では、そのような罪の悔い改めは、その都度、何度でも行わねば、業(ごう ー 仏教でいうカルマ)が深くなるとでも説いていたのか、そのためにはエルサレムの神殿までやって来て、捧げものをしなくてはならない、なんて言っていたようです。
しかし、エルサレムから遠く離れた地の、貧しい人々にとってすれば、そのような悔い改めには金も時間もかかるわけで、そうたびたび行えるわけもない。
しかし、そうなると「罪深い者」、「罪人」なんて言われてしまう。
福音書の中でイエスが「自分は罪人を招くために来た」なんて言ってますが、その「罪人」とは「犯罪者」という意味ではなく、まさに貧しくて、なかなかエルサレムの神殿に行けないような、あるいは、きちんと祈りを捧げていないような人々のことを言うのであります。もっと言いますと、大多数が、そういう人々であったともされます。
ゆえに、ヨハネが、「んなもなーたった一回でいいんだよ」と説いたことは、非常に人気があったようで、エルサレムの神殿にを牛耳っていたユダヤ教指導層からすれば、面白くなかったようです。
彼らは、人々から徴収していた神殿税の他にも、そういった捧げものも収入になったようですし、神殿の前で商売しているような人々からも金を取り立てて、それこそ裕福な生活をしていたともされます。
エル・グレコ『神殿から商人を追い払うキリスト』
一部の新興宗教の教祖様や、その幹部ともなりますと、信者からのお布施や寄付で、同じように裕福な生活をしているなんて聞きますからねえ。
「宗教って儲かるんですのよ」とは、そんな新興宗教の教祖夫人の言葉だとか。
宗教を営利商売にしてんじゃねーよ、と言いたくもなりますねえ。
なお、イエスが反旗を企てたのは、こういった当時のユダヤ教支配層であります。
人々を救うのが宗教者の役目なのに、あんたらは、ただ人々を虐げてるだけじゃねーか、と。
まあ、なんてことを言うもんですから殺されてしまったんですけどねえ。
アホたれパウロの言うように「すべての人間の罪を背負って死んでくれた」わけではないのであります。