気まぐれ美術館 ムンクの『叫び』を見て、「これは自分だ!」と思ったという人間はまともなのか? | 日々の妄言、ざれ言、たわ言、世迷言

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思いつくことを適当に書き込んで行きます。まことしやかに書かれておりますが、何の根拠もありません。適当に読み流してください。

あっしがまだ高校生だった頃、当時は「倫理社会」という科目でしたが、その教科書の中にあったエドワルド・ムンクの『叫び』という絵を初めて見た時の衝撃は強烈でした。

 

 

 

 

 

 

青春が美しいなどとは誰にも言わせない」というのは、フランスの作家ポール・ニザンの言葉だそうですが、ラブ・コメディタッチの青春ドラマの世界なんてーのは、それこそ、どこか遠い世界のもののように思っておりました。

 

 

もちろん子供ではないものの、大人とは扱ってもらえず、この先、何者になるのか、いっそなれるのか、宙ぶらりんな不安定な気持ちのまま、とりあえず大学進学を目指してクソつまらん勉強をする日々。

 

 

いい国作ろう鎌倉幕府で、1192年鎌倉幕府の成立」なんて年号を苦労して暗記し、こんなカビの生えたような歴史を学んで、将来生きてゆく上に役に立つ時が来るのか、なんて思ってました。

 

 

一応は共学でしたが、女性は少なく、硬派の伝統があった、ということでもないんですが「女と付き合うなんて」なんてムードがあり、女性には無縁でしたねえ。

 

 

 

いや、まあ・・・、ただ単に、あっしがモテなかったのかもしれませんが。

 

 

女子生徒に人気があった、スポーツ万能、勉強もできる上に、イケメンという、どう考えても日本国憲法にうたわれている「法の下みな平等」なんてものが虚しく思われるような、とんでもねー野郎が、彼女たちと親しく楽しそうに話しているのを横目で眺めながら「けっ!、腑抜け野郎が」なんて思ってました。

 

 

 

さて、ムンクのこの絵ですが、その時代、その時の、このように鬱屈した自分の気分をまさにそのまま表しているように思いました。

 

まあ、音楽にしろ、小説にしろ、絵画にしろ、我々はその作品に自分を投影するように思いますからねえ。

 

しかし、この作品に漂う、何か得体のしれない不安感というものは、人間なら誰しもが持っているのではないかと思います。

 

 

 

まず、作者のエドワルド・ムンクについて押さえておきましょう。

 

1863年(※ 江戸時代末期)北欧はノルウェーの方で、画家を志し美術学校を卒業した後はヨーロッパ各地を放浪するも、持病の神経症が悪化し、故郷であるノルウェーに戻ります。

 

 

彼の暗いイメージの作品は当初、批評家にボロクソにけなされたといいます。

 

その後、次第に評価が高まってゆきますが、どちらかといえばマイナーな画家であったようです。しかし1893年に発表された『叫び』は、傑作として高い評価を得たようです。

 

 

彼は、13歳の時、一つ年上の姉が結核で亡くなっており、妹は精神分裂症を患い入院しており、『叫び』は、その病院の向かい側の風景なのだとされます。

 

思うに、こういった家族のことが、彼の絵にも現れているのかもしれません。

 

 

 

よく誤解されておりますが、絵の中の呆けたよーな方が叫びをあげているのではなく、その場所においては時おり入院患者の叫び声が聞こえていたとされ、この叫びこそだとも、あるいは観念的な、いっそ幻聴のようなものだともされます。

 

 

彼は、フランスのニースにいた時、真っ赤な夕焼けに遭遇したとされ、その時、ぞっとするような果てしない叫びが自然を貫くのを感じたとされます。

 

 

 

 

 

 

 

確かに、夕焼け、つまり日が沈むときは、どことなく沈鬱な気持ちになることもあります。

 

太宰治の『斜陽』ではないですが、終わりを感じされることもあるでしょう。「人生の黄昏時」なんてことも言いますしねえ。

 

 

 

これが、日章旗のごとく朝日が昇ってゆくとうのなら、前途有望の活気も感じるでしょうが、夕暮れ時じゃねえ。

 

何と言いますか、もう、人生も終わりに近いような・・・。

 

 

 

あるいは、もう少し哲学的(?)、いっそ精神医学的に言いますと、生における根源的な不安なるものは誰にもあるとされておりまして、ムンクのこの作品は、そういった人間の心象風景を巧みに描き出したものともされます。

 

 

今、東京都美術館で「デ・キリコ展」をやっておりますが、このキリコの絵にも、見る者を不安にさせるものが少なくありません。

 

 

 

キリコ 『通りの神秘と憂鬱』

 

 

 

光と闇の間を駆け抜けて行く少女と、右側の建物の向こうに怪しげな影の存在。

 

 

ムンクの『叫び』でも、左側後方から黒づくめの服を着た二人の男が近づいているように見えます。

 

 

 

秘密(思想)警察、旧ソ連なら悪名高い国家保安委員会(※ 通称KGB プーチンも、元々はここの出身)、日本なら今は公安警察、かつてなら特別高等警察(※ 略して特高)かも?

 

 

 

ねずみ男の野郎、天皇陛下に対し無礼なことをブログに書いてるらしいぞ

治安維持法に引っ掛かるな。不敬罪だ

 

 

 

あるいは、ローマ法王庁査察部(?)なんて部署があって、

 

 

 

キリスト教を、いな、神すらも冒涜しているらしい

あいつ、悪魔に魂を売ったな。異端審問にかけよう

 

 

 

なんてことで、逮捕、いや、闇の中に抹殺されるとか。

 

 

 

 

 

 

 

F・カフカの『審判』の中の主人公ヨーゼフ・Kのごとく、なんだかよくわからん罪を問われ、結局その罪が何だか明らかにされないまま、殺されてしまうという不条理。

 

 

 

さらには、もう少し観念的にいいますと、「忍び寄る死の不安」を表しているとか。

 

 

あっしは、時々、何か得体のしれないものに追いかけられるという怖い夢をみることがあるのですが、精神分析のフロイト先生なら、それこそが「死の不安」だ、なんて言うかもしれませんねえ。

 

 

 

 

 

 

 

頭に懐中電灯なんかを括り付け、目の瞳孔が思いっきり開き、日本刀と猟銃も持った、こんなオッサンが、

 

 

 

ねずみ男、いっそ楽になったれや

 

 

 

 

なーんて追いかけてくるような・・・。

 

 

 

あっしも、ムンクと同じく(?)不安神経症なのかも。

 

 

(さっさと病院行けよ)