あやしいキリスト教 村松剛『教養としてのキリスト教』を読む キリストは固有名詞ではありません | 日々の妄言、ざれ言、たわ言、世迷言

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思いつくことを適当に書き込んで行きます。まことしやかに書かれておりますが、何の根拠もありません。適当に読み流してください。

フランス文学者の村松剛の『教養としてのキリスト教』(講談社現代新書)があります。初版は昭和40年ですが、よく売れたようで昭和54年には20版となっております。

 

 

日本人におけるキリスト教の信者数は、ほぼ1%前後で、思うに、よほどのことがない限り、今後も信者が増えるとは考えにくいです。

 

 

なお、宗教学的には「キリスト教系新興宗教」と区分され、さらにキリスト教主流派からは、いっそ「異端」とされておりますエホバの証人(ものみの塔聖書冊子協会)、モルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)といった団体におきましても、自分達こそが真のキリスト教徒だと主張しております。

 

 

 

 

エホバの証人が配る勧誘パンフレット

 

 

 

異端とされておりますのは、これらの団体の主張する教義が、かなり偏った、その教祖となっている方の独自解釈、いっそ狂信的な解釈が先行しているがゆえにであるからとされます。

 

 

して、前にも書きましたが橋爪大三郎大澤真幸という、二人の社会学者(※ 社会学にはその名も「宗教社会学」というジャンルがあります)の共著である『ふしぎなキリスト教』(講談社)もベストセラーとなっておりまして、少なからぬ日本人がキリスト教なるものに多大な関心を示していることがわかります。

 

 

また、この本においても、また村松剛も言っておりますが、西洋文化の根底にはキリスト教がありまして、いっそ深層海流としてこれを支えていると言えるでしょう。

 

あっし自身、海外の小説などを読んだり、西洋画を見ますに、これはキリスト教の基礎知識がないと理解できないと痛感させることが何度となくあったものです。

 

 

言うなれば日本文化の根底に仏教神道の考え方が流れているのと同じでしょう。こちらもまた、仏教や神道の基礎知識がないと理解しにくいものが多いように思います。

 

 

 

 

京都 臨済宗・龍安寺の枯山水の庭

 

 

 

また、我々日本人はよく無宗教だなんて言われますが、実際はこの仏教や神道の思想、さらには民間信仰と呼ばれる土俗的な宗教にどっぷり浸かっているように思います。

 

 

 

宗教というものをナメてもらっては困るのであります。

 

 

今回は、この村松剛の本に沿いながら、村松が言うところの身につけておいた方がいいという「教養」という視点から、キリスト教を概観してみたいと思います。

 

村松自身も書いておりますが、彼はクリスチャンではありません。

 

 

 

そして、あっしもまたそうですが、しかしだからこそ、信仰というものからは自由にキリスト教なるものを考えることができるのではないかと思います。

 

思うに、日本の知識人の中には、当初はそれこそ教養として理解するつもりが、そのまま信仰の方に進んでしまったような方も少なくないように思います。

 

しかし、その一線を超えてしまいますと、やはり盲信というか、いっそ狂信的な、それこそ怪しげな教義を疑わなくなってしまうように思います。

 

まあ、「信じる者は救われる」なんて言いますように、いっそ信者になってしまえば気持ちは楽になることだってあるのかもしれませんが。

 

 

 

そこをぐっと抑えて、こらえてこそ、自由なスタンスが取れるように思います。

 

ゆえに「いっそ、楽になっちまえや」なんて、信仰を勧める方の言葉は、それこそ「悪魔の甘い囁き」でしょうねえ。

 

 

 

いっそ、楽になっちまえや!

 

 

 

さて、そんなわけで、まずは「キリスト」という言葉について考えてみたいと思います。

 

 

そもそも「キリスト」とは、ヘブライ語の「メシア(油を注がれた者、聖別された者)」の、ギリシア語訳クリストス(ハリストス  ー 日本ハリストス正教会なんてのもあります)の日本語におけるカタカナ表記であります。

 

 

では「油を注がれた者、聖別された者」とはどういう方か。油まみれになっている人ということではありません。油といっても香油であり、古代イスラエルにあっては預言者や、王や祭司が就任するあたっては香油を塗るという習慣がありました。

 

 

例えば旧約聖書に登場するダビデ王ソロモン王などが油を注がれておりまして、メシアということになります。

 

後にこのメシアという言葉は、理想的な統治をする為政者、さらには神的な救済者を意味するものとなります。

 

 

して、ユダヤ民族は次々に降りかかってくる苦難の歴史にあって、いつの日にか、自分達の中から自分達を救済してくれるような神的な救済者、いっそ英雄と言ってもいいような人間が登場することを願っておりました。

 

 

まあ、別に古代イスラエルに限らず、古今東西、こういった、それこそ神がかった英雄の登場が望まれてきたと思うますし、歴史上にあっては、まさにそういった方も何人も登場したように思います。

 

 

 

あのヒトラーだって、混乱期にあったドイツの救世主のような形で登場したように思います。

 

 

 

演説するメシア(?)ヒトラー

 

 

 

 

さて、古代イスラエル(ユダヤ)には、イエスの他にも何人かの、それこそ「この人こそ、待ち望んでいたメシアではないか」という方が登場したとされております。洗礼者ヨハネもまたその一人であります。

 

 

イエスその人は、なぜか、ユダヤの一般的な男性の呼称である、父親であるヨセフの名を冠して「ヨセフの子イエス」ではなく「マリアの子イエス」と呼ばれておりまして、歴史的な存在としては「ナザレ(村の出身)のイエス」なんて言いますが、このイエスもまたメシアなのだ、と、彼の説いたことに従った人々が主張しました。

 

 

しかし、ユダヤの地に住むユダヤ民族の大半はイエスを自分達の救済者としてのメシアとは認めておらず、むしろ、自称・イエスの弟子パウロなどが、イエスこそはメシアなのだとユダヤ国外の在留ユダヤ人及び異邦人に説いて回った結果として、その信望者(信者)達を、そうではない人々が揶揄的に「キリスト(メシア)なんてものを信じている人々」なんて言うようになり、ここから「キリスト教徒」という名称が生まれます。

 

 

そう呼ばれた信者たちは、揶揄的に言われたことなんかを気にすることなく、むしろ、これが気に入ったのか、そのままそう呼ばれることを容認していたため、この名称が広く定着したようです。

 

 

して、時として、この「キリスト」という呼称(称号)を固有名詞のように使われる方がおります。

 

 

 

 

 

まず、村松からして文中で固有名詞のような使い方をしておりまして、むろん、これは誤りでしょう。

 

それを言うなら「ナザレのイエス」、あるいは「ナザレ」を省略してただ単に「イエス」とすべきでしょう。

 

 

 

「ナザレのイエス」という言い方は、そもそも「イエス」という名前は、古代イスラエルにありふれた名前であったため、それを区分するために用いられたものですが、今日では「イエス」といえば、キリスト教のイエスしかおらず、ゆえにただ「イエス」でいいように思います。

 

 

あっしなんぞですと、大酒飲み、いっそ、飲んだくれ野郎のイエスなんて言ってますけどねえ。

 

 

その方が、「神の子」なんかではなく、ずっと人間臭くって(!?)いいではないかと。

 

親近感すら覚えます。

 

 

 

反省しているイエス?

 

 

 

 

ちなみに、この絵を描いたルオーもまた『キリスト』なんて言ってますねえ。