憲法であります。5月3日の憲法記念日が過ぎたらもうお終い、ではないのであります。
日本国憲法と言いますと、「押し付けられた憲法」ゆえに、今こそ日本の実情に即して改正が必要だ、なんて声も聞きます。その一方でに「汗と涙の結晶である日本国憲法を守れ」なんて声もあります。
あっし自身はといいますと、法学部の出身ということもなく、本気になって憲法なんてものを学んだことはなく、ただ興味本位の独学で少しかじった程度のどシロートであります。
特別出演 『玄人のひとりごと』の南 倍南
そんなどシロートが、畏れ多くも日本国憲法を論じていいのか、分をわきまえろ、なーんて言われそうですが、憲法学の大御所とされる芦部信喜の『憲法』(岩波書店)なんかを恐る恐る読みつつも、たまたま手にした児島譲の『史録 日本国憲法』(文芸春秋社)にハマってしまいました。いやー、どシロートが読んでも面白いです。
手に汗握るサスペンス小説を読んでいるような気分でした。
実はこの日本国憲法の誕生そのものは極秘事項であったとされ、あえて言えば日本国民はなんだかよくわからんうちにこの憲法が制定され、その遵守が求められているとさえ言われております。
児島は、そんな誕生秘話を、独自の調査に基づき、可能な限りそれを我々の前に呈示してくれております。
まず、小島の経歴ですが東大の法学部出身で専攻は外交史で大学院まで行っております。
卒業後は共同通信に籍を置くも、その後は作家として活動し、『太平洋戦争』、『戦艦大和』、『天皇』といった著書があります。戦史研究家ともいわれていたようです。
あっしは、『天皇』も読みましたが、こちらも面白かったです。お勧めです。
さて、その第一章のタイトルは「近衛文麿とマッカーサー」であります。
まず、この近衛文麿という方はどういう方なのか。
今回は、まずこの方について考えてみます。
五摂家の近衛家の第30代当主にして、第107代後陽成天皇の12世孫にあたるのだとか。
正直言って、だからといって、何が何だかよくわかりませんが、先祖がどこの馬の骨ともわからんよーな、あっしなんぞとは格が違うように思います。(※ 『古事記』などにおいては、天皇こそは神の子孫とされますが、一般民衆は雑草のように沸いて出てきた、なんて書いてあるのだとか)
ちなみに、五摂家とは鎌倉時代中期に成立した藤原氏嫡流の公家の家格の頂点に立った近衛家、一条家、九条家、鷹司家、二条家(※ このまま序列が高い)を言いまして、大納言、右大臣、左大臣を経て摂政、関白、太政大臣にまで昇任できたとされます。
日本で天皇と言いますと、これはもう雲の上の存在ですが、その少し下あたりおられた方々と言えるでしょう。
『ひなまつり』の歌詞にあります「赤いお顔の右大臣」なんて方も、この五摂家の方であるのでしょう。
右大臣
さて、近衛文麿という方ですが、明治になっても、いや、明治になって久方ぶりに天皇にスポットが当たるようになったからこそ、この五摂家の公家の方々にもスポットが当たり、父の跡を継ぎ公爵、そして貴族院議員を務め、3度も内閣総理大臣に任命された方であります。
その逸話を知る限り、なかなか紳士(ジェントルマン)であったようですが、その政治手腕の評価は今一つ、というよりも相当に厳しいものが多いようです。
いくら人間がでけたお方であろうと、政治の中枢、それも内閣総理大臣まで務めるような方には、相応の政治的能力が期待されており、それにそぐわなかったということなのか。
して、興味深いのは、大日本国憲法(明治憲法)における(天皇の)統帥権によって、軍部と政府がいずれ二元化しかねないという認識を早くからもっていたとされることでしょう。
大本営
事実、そうなりましたからねえ。
これにより、軍部の独走というよりも暴走が起こったとされます。
それをもってか、戦後は「戦争は軍部の暴走であり、天皇と政府は飾りにすぎなかった」と弁明したとされます。
これに対し、近衛自身及び政府の責任を全て軍部に転嫁したという批判があったと言います。
さらに興味深いのは、その近衛の公にされた手記を読んだ昭和天皇は「近衛は自分だけに都合の良いことを言っている」と側近に語ったという話であります。
まあ、世の中、どんなことにあっても、上手くゆけば「自分のせい」、失敗すれば「~のせい(自分は悪くない)」なんて責任逃れをする方の方が多いと思いますからねえ。
あっしなんか、よく、これで糾弾されました。
あれは全て、ねずみ男が一人で勝手にやったことで
さて、この方、自身もまたA級戦犯とされることを知った時、自ら死を選んでおります。
しかし、思うに、「生まれは選べない」なんて言いますが、この方だって望んで近衛家に生まれてきたわけではないでしょう。
もちろん、天皇だってそうですが、たまたま、その家に生まれてしまったがために大きくのしかかる責任を受け入れざるを得なかったように思います。
そういう意味では、この近衛文麿という方に少し同情の気持ちを感じます。
その一方で、思い出すのは、平成天皇が皇太子時代、「将来、何になりたいと思うか」という質問に対し「僕は天皇になる」と答えたというエピソードでしょう。
これは皇太子の教育係を務めたアメリカから来たヴィニング婦人によるものです。
この答えを聞いた彼女は、皇太子には「~になりたい」という希望は一切許されず、ただ「天皇になる」ことが最初から決まっているのだと痛感したとされます。
ついでに言えば、やはり皇太子時代の平成天皇が、信州の古刹の境内にあった石碑に書かれていた言葉にじっと見入っていた、というエピソードでしょう。
信州 前山寺
人は生まれによって尊とからず
その行いによって尊し
まだ若かった皇太子は、これを読んで何を思ったのでしょう。
ちなみに、この言葉は、数ある経典の中でも最も古いとされる『スッタニパータ』の中にあったものだと思います。
釈迦がバラモン(※ インドのカースト制の頂点に立つ人。最も尊い人)とはどういう人かと問われ、
(人は)生まれによって卑しい人やバラモンになるのではない
行為によって卑しい人にバラモンにもなる
と答えたのだとか。
いやー、さすがは釈迦です。
単純な、あっしなんぞは、もう、その場で頭を丸めて弟子入りしたいという気持ちになったものです。
して、この石碑の言葉を読んだという平成天皇の、その後の行動が偲ばれます。
東北大震災時に被災地を慰問された平成天皇・皇后
雑草とされた、あっしらも見習わなくてはいけませんねえ。