児島襄『史録・日本国憲法』 マッカーサーが日本に求めたもの それが現在の日本となっている? | 日々の妄言、ざれ言、たわ言、世迷言

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思いつくことを適当に書き込んで行きます。まことしやかに書かれておりますが、何の根拠もありません。適当に読み流してください。

話は1945年8月15日、アメリカの首都ワシントン陸軍省民生部長室に呼ばれた新任大佐であるケーディス大佐(チャールズ・ルース・ケーディス)から始まります。ハーバード法科大学院を卒業後、財務省に入省し、ニューデール政策推進に尽力し、戦争がはじまるとアメリカ陸軍に属し、戦後はGHQ(連合軍最高司令官総司令部)民政局課長、後に次長とり、局長であるコートニー・ホィットニーの下で日本の民主化を推し進めた方です。

 

 

 

ケーディス大佐

 

 

 

お、ホイットニー、そしてケーディス共に弁護士でもありました。

 

 

日本国憲法制定にあたっては、GHQ草案作成の中心的役割を果たしたとされ、戦後の日本の方向性に大きな影響を与えたとされます。

 

 

彼は、民生部長室で命じられた任務は「政治的武装解除」であったとされます。

 

彼自身、初めて耳にした言葉であったか。

 

 

東京湾上の戦艦「ミズーリ」の上甲板にて、9月2日、日本降伏の調印式も済んだ翌日、彼は厚木飛行場に降り立ち、横浜にあった連合軍総司令部に着任します。

 

 

 

調印する 重光葵外相

 

 

 

既にアメリカは占領政策の基本方針が出来ていたとされます。そして占領とは言っても軍事的なものではなく、むしろ新しい日本という国を作ることを目標とする政治占領というものであったとされます。

 

 

歴史は勝者によって書かれる」なんて言いますが、もし、軍事占領というものであるなら、かつて日本がそうしたように台湾朝鮮、そして満州と呼ばれた中国の地のようになっていたのではないかと思います。

 

 

 

ハワイやグァムと同じく、極端なことを言えばアメリカ合衆国の属州、一つの州になることだってあり得たわけです。

 

実際、沖縄はかつてはアメリカの統治下にありましたからねえ。

 

 

 

 

アメリカ統治下にあった沖縄

 

 

 

では、いったいその政治的武装解除なるものとは、具体的にはどういうものとされたのか。

 

まず、日本の降伏条件を定めたポッダム宣言の内容をあげてみます。

 

 

① 日本の領土の範囲

② 戦争遂行能力の打破

③ 賠償方式の指定

④ 戦争犯罪人の処罰

 

 

 

といった一般に講和条約で規定される事項の他に「基本的人権」、「民主主義的傾向」の尊重、さらに「日本国民の自由に表明せる意思に従い、平和的傾向を有し且つ責任ある政府」が樹立されるまで占領を続けるという旨が明示されていたとされます。

 

 

 

 

 

GHQ兵士による靖国神社の参拝ならぬ見学

 

 

 

いずれにせよ、日本政府を通じての間接的な支配(管理)であるとしております。

 

それまでの政府、政治中枢なんてものをことごとく廃するという、それこそ、同じ敗戦国であるドイツの場合とはまた違っていたのであります。あくまで、GHQの意思に沿うものということであれ、少なくとも形の上では一定の自主性は保証されていたとも考えられます。

 

ついでながら、ドイツは米英仏ソの四カ国が統治の全責任、全権力を持ち、東西両陣営の力関係(冷戦)の結果として東西に分割されてしまいましたねえ。

 

 

 

ベルリンの壁

 

 

 

お隣では朝鮮が、韓国と北朝鮮に分割され、ヴェトナムもまた南北に分断されてしまいました。

 

日本も、東西に分割なんてことだってありえたのか?

 

 

この点にあって、日本は名目上は連合国の共同管理であったとされます。まあ、実質的にはアメリカの主導であったわけですが。

これは、アメリカがソ連の介入を嫌ったがためとされます。

 

 

まあ、それで日本は分割されることがなかったわけですから、この点はアメリカに感謝しなくてはいけないのかもしれません。

 

むろん、アメリカは、あくまで自国の利益(※ 極東の安全とか)を考えてのことであったんでしょうけどねえ。

 

 

 

あなた(日本)のためを思って

 

 

 

なーんて言っていたんでしょう。

 

 

さて、極東の安全ということの中には、「日本が再び米国または世界の平和と安全の脅威にならぬよう」にすることにあったとされます。

 

 

第一次世界大戦でコテンパンにやられたドイツは、それでおとなしくなったかと思いきや、ヒトラーなんてのに扇動されて、再びヨーロッパさらにはアメリカの脅威になりましたからねえ。

 

 

そのためにも、日本の政治体制、そして社会構造を根本的に変革しなくてはならない、と考えたのでしょう。

 

 

して、考えてみますに、それは、あくまで日本、そして日本人こそが、そうしなくてはならないと主張したわけではないのであります。あくまで、アメリカが自分達にとっての脅威とならぬように求めたのであります。

 

 

まあ、太平洋戦争の日本の被害を見る限り、日本人にあっては、この戦争は無謀なものであったという思いも強かったとは思います。

 

昭和24年、政府の経済安定本部が発表した統計によれば、

 

 

軍人、軍属、市民の戦死、行方不明者は約253万3千人。船舶の約80%が失われ、建物は大都市を中心に24.6%が被害を受け、罹災者は国民の12.1%にあたる875万4千人というんですからねえ。

 

 

ここまで日本という国を導いていった為政者、ひいてはその国家体制、それを支えてきた社会構造を変えるべきだという思いは、そうはいっても日本人の中にもあったように思います。

 

 

さて、アメリカの日本に対する具体的要求として、まず軍事力の破壊、次に国民を代表する政府組織の樹立、婦人参政権、政治犯の釈放、農民の開放、自由な労働運動の保証、自由経済の促進、警察弾圧の排除、自由な報道体制(マスコミ)、教育の自由、政治権力の中央集中排除なんてものがあったとされます。

 

 

して、これをみますに、これらはみな、現代の日本の国家体制、社会構造にあって、もはや当然のものとされているものでしょう。

 

例えばの話、民衆が立ち上がりフランス革命のような根本的社会構造の変革を行った、というわけではないのであります。

 

 

 

日本における革命と言えば、それこそ明治維新がそれに該当するかもしれませんが、これはあくまで為政者、政治的権力者が変わったに過ぎないでしょう。

 

一般民衆が当時の江戸幕藩体制を批判し、これを覆した、ということではないのであります。

 

 

 

国民主権なんて、今やもう、当然のものと考えておりますが、かつては言うまでもなく天皇主権でした。

 

 

婦人参政権だって戦後になって確立されました。農地解放に関して言えば、日本の農業体制は大地主と小作人という関係が主流であったとされます。警察機構としては、言うところの思想警察とも言うべき特高があり、報道にあっては軍部などの検閲体制があり、教育にあっては国家神道なる宗教教育がなされておりましたからねえ。

 

 

歴史に「もし」というものはない、とよく言われますが、しかし、あえて言うなら、もし、日本が戦争に負けずにいたら、今では当たり前の権利ともなっているこれらのものが日本人に保証されたものになっていたのか否か。

 

 

今でも、学校では教育勅語が奉読され、この時に最敬礼しなかったがゆえに、「非国民が!」なんて言われていたかもしれないのであります。まして、紀元節(後の建国記念日)、天長節(※ 後の天皇誕生日)などの国家的祝日にあっては、各家で国旗掲揚をしなくてはならず、それをやらない者は同じく非国民にされていたとか。

 

 

んで、あっしの書いているような、わけのわかんねーブログなんかにも検閲が入り「時々、キリスト教なんて毛唐の邪教について書いているが、これ治安維持法に引っ掛かる」なんてことになり、特高に連れてゆかれるとか。

 

 

 

 

あっしが何をしたというのだ というカフカの『審判』のごとくになってしまう?

 

 

 

 

 

さて、GHQは、このような国家の大手術とも言うべきものを、僅か1年半でやろうとしていたとされます。

 

どシロートが考えたって、んなこたー無理だと思いますよねえ。

 

 

さあ、ここで冒頭に登場いたしましたケーディス大佐の登場であります。

 

上司に、そのための何か名案はないものか、と尋ねられた彼は「名案ではないですが、最低の必要条件は思い付きます」といったのだとか。

 

 

そう、それこそが、国家の基礎法である憲法の改正でありました。

 

次回は、そんなGHQの方針に対し、あくまで国体維持に拘った、天皇自身ではなく日本の指導者達にスポットを当ててみたいと思います。