あやしい宗教学 宗教は現代人を救えるのか? 人は現代の宗教に何を求めているのか? | 日々の妄言、ざれ言、たわ言、世迷言

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思いつくことを適当に書き込んで行きます。まことしやかに書かれておりますが、何の根拠もありません。適当に読み流してください。

笠原一男の『誰がための宗教か』の第三章は「宗教は現代人を救えるのか」というものであり、その第一節は「人は現代の宗教に何を求めているか」であります。

 

 

まずは、いきなり「新興宗教」についてであります。

 

 

 

 

 

 

新興宗教とは、文字通り新しく興された宗教であり、これと対比されるのは既存宗教であります。

 

 

前にも書きましたように、日本では幕末から明治にかけての第一次、そして戦後になっての第二次、さらに80年代に第三次の宗教ブームが起こっております。これらが、新興宗教というものになるでしょう。

 

 

厳密に言えば、第三次のものを新新(興)宗教なんて言うこともあるようです。

 

 

しかし、当の新興宗教の教団にすれば、このような言い方は嫌がるのだとか。いうなれば「成り上がり」、「新参者」というイメージがあるというのか。

 

 

しかし、笠原センセも書いておりますが、まず仏教からして、当時のインドでは新興宗教とされていあとされますし、日本仏教にしても伝来当初は、「仏は異国の神」などと理解されていたようですし、鎌倉仏教にしても、奈良、そして平安仏教からすれば新興のものとされていたはずです。

 

いずれも、新しい世界観、価値観、宗教観をもって、既存の宗教では物足りないと思っていた方々の心をつかんだと思います。

 

 

キリスト教だってそうでしょう。

 

 

さらに笠原センセは、宗教が本当に生き生きした姿で、本質的な役割を果たそうとし、真矢果たしているのは、その宗教が「新興宗教」と呼ばれている間だけだ、なんて書いております。

 

 

なるほど、仏教にしてもキリスト教にしても、その当初は斬新な主張ということで、多くの人々の心をつかみますが、次第にそのような斬新さがなくなり、場合によっては堕落(?)していったように見えないこともないのか。

 

 

キリスト教は、政治と結びつき、十字軍魔女狩りなんてものをやりだしたころから、日本仏教でいえば、徳川幕府の手厚い保護を受け、その政治的末端機関と位置付けられ、さらには江戸時代になって、葬祭にのみ専心するようになってからは、「葬式仏教」などと揶揄されるように、仏の教えを説くよりも死者の供養の方がメインとなってしまっているように思います。

 

 

また、人類の歴史にあっては、数多くの宗教が新たに起こされましたが、それが長い歴史に耐えて受け継がれているものは、そう多くはないとされます。

 

日本の新興宗教にしましては、その当初は飛躍的に信者を増やし拡大していっておりますが、やがて頭打ちというか、いっそ、衰退しつつあるものも少なくないように思います。

 

 

 

 

宗教を信じる人自体が減少傾向にある?

 

 

 

人々がもはや、その宗教に対する期待を持たなくなったのか、それとも、その宗教が説く主張が新たな時代のよう要求にそぐわなくなってきたのか。

 

 

例えば、新興宗教のチャンピオンともいえる創価学会に関しての本を幾つか読む限り、この宗教が飛躍的に発展したのは戦後の日本の高度成長経済期に重なっていることがわかります。

 

産業構造が大きく変わり、地方から大都会へという、人に大きな流れがあり、それまでの伝統的な社会構造も大きく変わります。

 

こと、このように地方から大都市へと移り住むようになった方々、それまでの伝統的社会から逸脱してしまった方々、そういう方々の心の支えとなったのが、この創価学会ではないかともされます。

 

 

 

 

創価学会はなぜ飛躍的に伸びたのかを示す本

 

 

 

 

しかし、今や、そのような社会構造は変わってきており、人々の生活感覚、価値観も以前とは異なってきているはずです。

 

その変化に対し、こういった新興宗教が人々の期待や要請に応えられているのか?

 

 

 

さて、そもそも人々は宗教にどんなことを期待しているのか。

 

 

笠原センセによれば、

 

 

・ 貧しさのどん底から抜け出したい

・ どうにもならない病から救われたい

・ 様々なトラブルの解決を願って

 

 

 

という、三つに集約できるのではないか、としております。

 

 

他にも、生きてゆく上での支えや指針が欲しい、なんて方もいるでしょう。

 

 

いずれにしても、これらは一言で言えば現生利益でしょう。

 

 

死後の安寧、なんてものは、いよいよにならないと生じないのか。信じれば天国に行けるなんて説くキリスト教や、極楽往生を説く浄土信仰は、とりあえずお呼びではない?

 

 

 

 

阿弥陀如来

 

 

 

お呼びではない、お呼びではない・・・、

こりゃまた、失礼いたしましたー!

 

 

 

って、あんたは植木等か、つーの。

 

 

まあ、いっそ、死んでしまえば、全ての問題は解決するはずで、中には「いっそ、楽になっちまうか」なんて思う方だっているかもしれないですが、この世に未練を残す方の方が多いでしょう。

 

 

して、笠原センセも書いておりますが、そして宗教の中には、「信じれば、もうすぐにでも救われる」、「その日から人生バラ色」なんてことを説くものもあるようですが、そんなに簡単に救われるはずもないはずです。

 

 

称して、これを「インスタントご利益・功徳」というのだとか。

 

自分自身が上げてもいなかったぼた餅が、棚からおちてくるわけがない、と笠原センセ。

 

 

 

手厳しいです。

 

まあ、そうでしょうねえ。

 

 

然るに、宗教の中には、

 

 

任せとかんかい

大船に乗ったつもりでいなさい

 

 

なーんて、安易な約束、いっそご御利益のバーゲンセール(!?)をしているところもある、とか。

 

 

前にも書きましたが、あっしが以前に籍を置いていた会社と、取引のあった会社の担当者の口癖は「心配ありません。大船に乗ったつもりでいてください」というものでして、これがまったくの大嘘!

 

 

度重なる納期遅れで、どれだけ泣かされたことか。

んで、文句を言うと、「今度こそ、大丈夫です。大船に・・・

 

 

 

悲劇のタイタニック号

 

 

 

頭にきて、この担当者のことを「タイタニック野郎」と言ってました。

 

 

 

つまるところ、上手い言葉、耳にやさしい言葉、なんてものは疑った方がいいと思います。

 

大丈夫。信じればすべて解決しますよ」なんて言うような宗教はアブナイと思います。

 

 

 

やっぱり、最終的には自分一人で解決する、というか決着をつけるしかないように思います。

 

場合によっては、そのような苦しみを黙って受容するしかない、ということだってあると思います。

 

 

宗教がしてくれるものと言えば、そんな自分を支えてくれることでしょう。「神は自らを助ける者を助ける」なんて言いますが、いっそ、「助ける」というよりも「支えてくれる」のではないかと思います。

 

 

 

吊り橋で言えば「てすり」のようなもの?

 

 

 

 

これがご利益でしょう。

 

 

神仏が支えてくれる、バックに付いてくれる、ともなれば心強いと思うはずです。

 

たとえそれが、自己暗示だとしてもですよ。

 

 

キリスト教、児童洗脳教育システム・日曜学校の問題児、落ちこぼれ、と言われていたあっしが、そこで教わった歌があります。

 

 

 

ぼくの後ろには イエス様が 目に見えないけれど 付いている

 

だから、なにも怖くないんだってさ ♪

 

 

 

すごいですねえ。ヤクザがバックに付いている、なんてよりもずっといい。

 

 

まあ、過度に期待してもいけないとは思いますが。

 

 

いいか、我々神の国の、日本軍人には、

畏れ多くも天皇陛下をはじめ、八百万の神々がついているのだ

 

 

なーんて言っていて負けてしまいましたからねえ。

神風は吹かなかった、と。

 

 

 

さて、笠原センセは、この節の最後に親鸞が説いたことについて触れております。

 

その著『現生利益和讃』なるもので、親鸞はとにかく阿弥陀仏の教えを信じろと。

 

 

阿弥陀仏は人々を救ってくれるというのだから、ひたすらそれを信じ、自身でもまた精一杯生きろ、と。

 

 

これもまた「支え」ということでしょう。その支えを受けて頑張るのは自分なのだということ。

 

 

 

歩き始めた赤ちゃんが、背後にいる親を見ながら、いざとなれば、彼らが助けてくれるものと信じてなんとか一人で歩こうとする。

 

笠原センセは、こういう宗教ならいい、としております。