さて、いよいよ第三章に入ります。最も論争ともなる章であります。
今回は、特にフェミニズムの視点も絡めていろいろと考えてみたいと思います。比較宗教学者の岡野治子『女神 聖と性の人類学』における「聖と性の拮抗するキリスト教文化 ー エバとマリアをめぐって」(平凡社)を参照しながら進めます。
アダムとイブ(エバ)をめぐっては、いろんなことが言われておりまして、ことキリスト教にあっては、このイブの評判はよくありません。これに対しフェミニズムの立場からフェミニスト神学という立場から批判があげられております。
そもそもキリスト教のける神学は、男性優位的な視点から行われてきたとし、これを女性学(フェミニズム)の視点から捉えなおすという立場です。
さて、第三章はヘビの登場から始まります。
お好きな方もおりまして、今ではペットとして飼われているものもあるのだとか。
あっし自身は、正直言いましてあまりお友達にはなりたくないと思いますが、そういうのは不当な差別ということになるんでしょうか。
だったら、ゴキブリはどうだ。ゲジゲジならいいのか。いっそ、サナダムシなんかもお友達にすべきなのか?
生きとし生けるものみな平等ではないのか?
なーんてことを言われますと、いっそ敵前逃亡(?)したくもなります。
しかし、宗教学的にいますと、このヘビというもの、時としてその脱皮する姿を生まれ変わるものとして、不老不死、永遠性、豊穣性のシンボルとし、これを崇める考えもあります。
ウロボロス
ウロボロスと言いまして、古代ギリシアには自ら尾を咥えるヘビ(※ 竜)のイメージがありますが、そしてこれは古代中国、アステカ、アメリカ先住民にも共通するものだとか。
日本ですと白蛇信仰があります。弁天の使いとして富をもたらすとし、これを祀る神社もあります。
一方、同じ古代ギリシアには見たものを恐怖で石のように硬直させてしまうというメドゥーサという女神というか、怪物がおりまして、その頭髪は無数のヘビだとか。
楳図かずおのマンガには、その名もヘビ女が登場します。これは怖かったです。
楳図かづお 『ママが怖い』
継子イジメがテーマであったと思います。
特異体質(?)なのか、首が伸びたりすることのできる、いっそ、ろくろ首のような継母が、継子である女の子を、そうやって怖がらせているのですが・・・、そのうちに、その母親の背中にヘビの鱗のようなものが見え始め、
後は、もう、阿鼻叫喚の地獄絵図なのであります。
ガキの頃、これを読んだあっしは、もう、ビビりまくっておりまして、今でもトラウマになっております。
こーんな感じでした
そんなアンヴィバレンツ(二律背反)、つまりいうなれば善悪両面を持ったヘビですが、旧約聖書では神が創造したものの中で最も賢い、いや、狡猾な、つまりずる賢いものであったものとされます。
そのヘビが何でエデンの園にいるのかよくわかりませんし、また、なんで人間と会話できるのかもわかりませんが、この野郎(※ 雌だともされます)がイブに語り掛けてくるのであります。
マソリーノ 『アダムとイブの誘惑』 このヘビは顔が女性です
まあ、この辺りは神話のことですからねえ。
して、ヘビは、
園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言ったのかい
なーんて言うのであります。
神が言ったのは、「どの木からとって食べてもいい。ただし善悪を知る木だけはアカンよ」でした。ゆえにイブは、ヘビの言葉を訂正します。
ただし、「食べるな」に付け加えて「触れるな」とも言われたとしております。しかし、神は「触れるな」とは言っておりません。まあ、食ったら死ぬ、というんですから近づかないに越したことはない、ということなのか。
んなことねーって。死にゃーしねーよ
神様はよー、あんたらが、その実を食うと神と同じようになる、
同じ能力が身に付くことを恐れてるんだよ
ったく、ケツの穴のちいせーよな
荒野で修行しているイエスに、「腹減ってんだったら、そこら辺の石をパンに変えりゃーいいじゃねーか。あんたは神の子なんだろうから、そのくらいできるだろう」なんて言う悪魔の言葉を思い出します。
ちなみに、このイエスの場合は、これ、イエス自身の心の中における葛藤ではなかったかと思います。
イエスは、この時はそんな悪魔の囁き(?)に耳は貸しませんでしたが、自分が飲みたいばっかりにか、宴会で酒が無くなった時には、ただの水を葡萄酒に変えてます。
神通力(?)を、こういう時には使っていいのか。そこんとこはどーなんだ、とイエスにツッコミを入れたくもなります。
さて、ヘビにこう言われますと、つい、心が動いてしまうイブであります。
よく見れば、その実はいかにもおいしそうに見えます。
まして、ヘビが言うように賢くなるというのなら・・・。
さて、問題はここです。
伴侶であるアダムは、この時、どこにいて何をしていたのか?
というのも、イブは自分がまずこの実を食べると、続いて共にいた夫にも与え、彼も食べた、とあるのであります。
まず、「共にいた」というのであれば、アダムもまたイブに話しかけているヘビの言葉を聞いたはずです。
ならば、なぜその時イブに代わってでも反論しなかったのか。
それとも心ここにあらずで、あらぬ方向を見ていたのか。
あるいは、アホウのごとく、ただ傍観していたのか。この辺りがよくわかりません。
続いて、禁じられていた実を食ったというイブを「いーけないんだ、いーけないんだ。言いつけてやる、神様に言つけてやる」と、なぜ非難しなかったのか。
さらに、その禁じられていた実をイブから渡されると、何も言わず、食っちまったということでしょう。
「おい、これって、禁じられた実じゃないのか?」と、なぜアダム自身は拒絶しなかったのか。
それともイブが「違うわよ」と騙したのか。
この辺りが何とも不可解です。
と言いますのも、後の神学にありましては、イブがまず禁を犯し、なおかつ、アダムを共犯にしたとし、ここから女性は愚かで、すぐに誘惑に乗ってしまうという女性蔑視の考えがなされたとされますが、しかし、よく考えてみますと、この状況においてはアダムの責任はどーなるんでしょう。
そもそも、神はアダムにエデンの園の管理を命じ、それを助けるということでイブを作ったとありますから、その園の管理、そして援助者であるイブの監督責任者はアダムということになるはずです。
神学にあって、アダムはその責任を問われてはいません。フェミニストでなくても、ここは糾弾すべきではないのか。
さてさて、この実を食べた二人は「目が開け」、つまり、善悪の判断ができる、と、これは何が善いか、悪いかを自分で判断するということでして、二人は自分達が裸であることを善くないことと判断したのでしょう。そこでイチジクの葉をつづり合わせて腰に巻いた、とあります。
先回も書きましたように、裸であること自体、実はこれが自然の在り方でしょう。動物は体毛に覆われているといっても、つまり裸です。そして、それを恥ずかしいなんて思うこともないはずです。
人間に近い類人猿もまた体毛に覆われておりますが、人間の肌の多くは露出しております。これは衣服を身につけ、これによって体温調節を行ったが故ともされます。
もう一つ、これは接触によって性感覚を高めるため、なんて説もあります。確か、動物情動学者のD・モリスが主張していたような・・・。
して、人は衣服を身につけることにより、これがないと、つまり裸になると恥じらうということになるでしょう。
おかしいのは、そもそも、最初の人間であるアダムとイブは、元々衣服など身につけていなかったわけですから、そんな感情はありえなかったはずなのです。
先回、タヒチの女性が胸を隠すようになったのは、キリスト教の宣教師のせいであった、と書きましたが、彼女たちもまた胸を露出することが恥ずかしいとも思わず、同じように男たちもまた、女性の胸に性的な感情を抱かなかったのではないかと思います。
つまるところ、女性の胸に性的な意味があるというのは、文化というべきでしょう。後から作られたものです。
さて、そんな恥じらう二人の人間に対し、神が言います。
あなたが裸であることを、誰が知らせたのか
そんなことを知らせることのできるのは神しかしないはずです。しかし、もちろん、神はしておりません。
となれば、人が勝手に判断した、知った、解釈した、ということになります。
もっといえば、「裸であることは恥ずかしい」という文化を人間が作った、とも言えます。なるほど、動物が例えば人間にじっと見つめられて恥じらう、なんてことはしないでしょうねえ。
むしろ、「ガン、つけんじゃねーよ!」と、怒り出しそうな気がします。
つまるところ、羞恥心は文化的産物だとも考えられます。その文化を身につけていない幼い子供は動物と同じで、裸であっても、特に恥じらうことはないはずです。
もっと言いますと、「隠すがゆえに、そこに意味が、羞恥心が生ずる」と言えると思います。
「恥じらいのヴィーナス」 胸と局部を隠そうとするがゆえに、むしろ強調しているようにも見えます
猿楽師、世阿弥の言葉に「秘めたるは花」という言葉がありますように、隠すがゆえに、それが尊いもののように思われてくる。
何年に一度しか人々の目に触れない、つまり秘仏がまさにそうでしょう。
あんなもなー、一般に公開されている仏像と何ら変わりはないものです。秘仏とするから、御開帳の時、それを目にして拝むと、何か大きなご利益があるような気がするだけです。
この裸体論は、人間の堕落論にも繋がってゆきますが、これは次回に、もう少し深く、厳しく(!?)追及してみたいと思います。