あやしい宗教学 『誰がための宗教か』 科学は人間をどこまで救えるのか? AIが人生相談? | 日々の妄言、ざれ言、たわ言、世迷言

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思いつくことを適当に書き込んで行きます。まことしやかに書かれておりますが、何の根拠もありません。適当に読み流してください。

引き続き、笠原一男の『誰がための宗教か』に沿って考えます。第一章は「人はなぜ神仏にすがるのか」で、その第一項は「現代人にとって宗教とは何か」で、今回の第二項は「科学はどこまで人間を救えるのか」というものであります。

 

 

科学が飛躍的発展を遂げ、今やAI(人工知能)の時代であります。そんな時代に、宗教なんてものが意味を持つのか、役に立つのか?

 

 

 

 

確かに宗教なんて言いますと、古臭い、迷妄のようなイメージもあります。釈迦が人の道を説いたのは紀元前5世紀の頃、そしてイエスだって今から二千年以上も前の方です。いくら偉大だとはいえ、そんな遥か昔の人の考えに教えられるものがあるのか、と。

 

しかし、考えてみれば、仏教にしろ、キリスト教にしろ、これほど長い年月を経てもなお人々の心を捉え続けてきたとするなら、そこにはやはり何か時代や社会を越えて、人間の心に影響を与えてきたのではないのか?

 

 

もっといいますと、人間の歴史にあっては、これ以外にももっとずっと多くの宗教が生まれておりますが、その多くは廃れてしてしまっております。いわゆる「新興宗教」といわれるものにしても、例えば現代におけるそれらの宗教が、この先ずっと人々によって支持されてゆくのか?

 

 

巨大新興宗教とされる創価学会にしろ、立正佼成会にしろ、国内外でその信者は1千万人以上もいると豪語している幸福の科学(※ 教団発行のパンフレットの配布総数 = 信者数、だそうです)にしても、当初は飛躍的に信者数を伸ばしたようですが、その後は低迷状態にあるとされます。

 

時は流れ、時代は変わってゆく中、こういった宗教も存続してゆけるのか否か。そこに人々を捉えて離さないものがあるのか。

 

 

 

さて、笠原センセによれば、科学がいくら発展しようとも、人間の思考は、その存在は昔とそれほど大きく変わったわけではないとしております。

 

楽しければ笑い、悲しければ泣く。

 

 

そうやって、人間はその一生を終える。

 

科学は我々の生活に利便性をもたらしてくれましたが、しかし、その生き方まで、その望ましい方向に変革してくれた、というわけでもないでしょう。むしろ、昔の人の方がのんびり暮らしており、現代人は時間に追われせわしなく生きている、なんてこともいわれます。

 

 

また、生きてゆくためには数多くのことを学ばなくてはいけないともされます。

 

馬の子なんか、生まれてすぐにも一人で立って生きられるというのに、人間は生まれてから約十数年もたたないと一人前の人間に認めてもらえません。

 

その間に、膨大に増えた知識を身につける、いっそ詰め込まなくてはならない。さらに科学の進歩が速すぎて、日々学ぶことが多すぎて、中には付いてゆけないなんて方もいます。

 

 

その科学の発展における恩恵を得てもなお、我々は様々な苦しみから解放され、幸せになったのかと言いますと、これまた疑問ですねえ。

 

 

 

 

 

 

まず、の問題があります。

 

 

まあ、この死について考えるなんてのは人間だけでしょう。死なんてものを知らないのなら、それはそれでいっそ幸せのような気もします。

 

人間以外の生き物は、まずもって死なんてことを意識することもなく、ただそのまま死んで行くように思います。

 

得るものがあれば失うものがある」なんていいますが、人間は脳を発達させ「考える」ようになったがゆえに、死について思いめぐらすようになったように思います。

 

 

死にたくはない。いっそ永遠の命が欲しい。

 

ローマ皇帝ネロは当時の知識人を総動員して不老不死の研究に当たらせたとされますし、中国は秦の始皇帝は、東海の島にあるという不老不死の果実を求めて家来を探しに行かせるも、吉報を待ち続けたまま、その生涯を終えたとか。

 

 

キリスト教でも、パウロがそんな夢を見ていたようです。

 

 

それから二千年がたってもなお、科学は不老不死になるような技術を構築してはおりません。

 

 

アメリカでは、不治の病に侵された方を、生きたまま冷凍保存し、いずれ、その治療法が確立させたときに蘇生させてくれるサービスがあるのだとか。

 

 

 

 

いっそ、亡くなった方を火葬せず、冷凍保存して、近未来にそれを復活させる技術が生まれたら、同じように生き返らせよう、なんてことを考える方だっているかもしれない。

 

 

死について言えば、現在にあって最も受容しやすい考えとしては、やはり釈迦の説いたものがあると思います。それは、「死は、誰にとっても、生き物全てにあって必然のものだから、素直に受け入れろ」というものであります。

 

 

諦め」といえなくもありませんが、むしろ積極的、いわゆるポジティブな考え方だと思います。

 

少なくとも、キリスト教、というよりはパウロの怪しげな復活思想よりも、ずっといいと思います。(個人的には)

 

 

 

ちなみに、仏教には当初、釈迦自身の説いたものから飛躍(逸脱?)して、人間は死んでも再び生まれ変わるなんて考えもあります。輪廻論ですねえ。

 

 

他にも、死んだら極楽に行くことができる、なんて説く浄土信仰もあります。

 

パウロの言う復活にも似ているように思いますが、むしろ、復活より、死んでから行けるという天国の考えに近いと思います。

 

 

 

日本の民間信仰(民間神道)にあっては、人は死ぬと、その魂は次第に浄化され、ついには祖先神と合体し、そこから、再び新たな命を得て生まれ変われる、なんてものがあります。

 

人は死ねば、やがてはカミ(神)になり、そのカミ(神)からの授かりものが、新たに生まれた子供だというのであります。

 

 

の子は、亡くなったおじいちゃんにそっくりだねえ

きっと、生まれ変わりなのかも

 

 

 

なーんてことが言われたりもします。

 

 

 

もっとも・・・。

 

 

あの、みんなの嫌われ者の、ねずみ男のジジイにそっくりだな

うーむ。この際、いっそ・・・

 

 

 

なーんて闇に葬られてもねえ。

 

 

なお、天理教も、似たようなことを説いていると言います。「出直し」といい、肉体は滅びても、その魂は新しい肉体を得て生まれ変わるのだとか。

 

パウロの説くように、そのまま、永遠の命を得るのかいいか、それとも、いっそ、全てチャラ、オールクリアして、まったく新しい人間として生まれる方がいいのか。

 

 

もしそうだとしても、これは選べるんでしょうか?

 

まして、輪廻思想のごとく、日頃の行いの悪さで、餓鬼道、畜生道の世界に生まれ変わったとしてもねえ。

 

 

まあ、いずれも、単なる幻想、夢物語でしかないとしても、そう信じ込んでしまえばいいとも言えます。「信じる者は救われる」って、こういう時の言葉ではないかと思います。

 

 

何度か書いておりますが、クリスチャンの老婦人が「私たちクリスチャンは、死んだら天国に行けるのよ」なんて嬉しそうに言ってましたが、その夢(?)を打ち砕くというのは酷ではないかと。

 

 

とある奥さんに先立たれた方が、「死んだら、亡くなった妻に会えるはずだから、今からそれを楽しみにしている」なんてことを言ってました。

 

ただ、実際にそう信じているというよりも、「そうなったらいいな」という期待、願望のようにも思います。実際に死んだらどうなるかなんて想像もできませんからねえ。

 

 

しかし、意地悪なことを言えば、亡くなったその奥さんは、実は死んだら初恋の人と結ばれたい、なんて思っていたらどーなるのか。

 

んで、いよいよ、この旦那が亡くなってあの世に行ったら、奥さんが見ず知らずの男と仲良くしていて、「お前、この男、だれだよ?」なんて喧嘩になることはないのか?

 

 

このような期待、願望なんてものは、自分にとって都合のいいものですからねえ。

 

 

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対話型AI、いっそカウンセリングAIなんてものもできているらしいです。

 

 

 

 

 

 

いっそ、宗教ではなくAIに悩み事相談、人生相談した方がいい?

 

 

 

AI どーした?元気なさそうじゃないか

 

人 わかるかい。最近、身体の調子がわるくてさー。ガンかもしれないんだ

 

AI それはいけないな。病院に行って精密検査してもらえよ

 

人 しかし、ほんとうにそうだったら嫌だしな

 

AI だって、おまい。人はいずれ死ぬんだよ。早いか遅いかの違いだろ

 

人 うーん。まあ、そうなんだけどさー

 

AI そうだよ。それより、もっと前向きに、今の人生を一生懸命に生きろよ

 

人 んなこと言ったってなー

 

AI 死ぬときになって「ああ、悔いのない人生を送ってこれた」って満足感があると思うぞ

 

人 そうだよなー。お前だって死ぬんだしなー

 

AI はー?オレはおまい、死なないよ

 

人 んなことはねーぞ。あっしが、このコードを引き抜けば・・・

 

AI お、おい!やめろ、やめてくれー!

 

人 人のことだと思って、適当なことをぺらぺらと。いっそ、楽になったれ!

 

 

 

 

ラッダイト(機械打ちこわし運動)

 

 

 

 

コンピューター相手の将棋ゲームでは、いつも、コンピューターと喧嘩している、あっしですから、こういう対話型AIとも、こんなふーに喧嘩しそうな気がします。