創世記第二章の続きです。
神は土から造ったアダムをエデンの園に置きます。そして見栄えもよく、食べておいしい実のなる樹を生えさせます。
園の中央には「生命の樹」と「善悪を知る樹」を植えます。
後に、この「善悪を知る樹の実」を人間が食べたことにより罰を受けるのですが、しかし、なぜ、神はそんな樹をここに植えたのか。
たまたま、この二つの木は桜のように美しい花が咲くので、それを愛でることができるようにということであったのか。
花見がしたかったら、まあ、やってもいいよ
ただ、あんまり飲みすぎるんじゃないぞ
なーんて言っていたのか。
しかし、
ただ、この木の実を食うんじゃないぞ
食ったら、死ぬぞ
なーんて脅かしてます。
なお、この「死」については、「永遠に生きることができたはずの人間」、つまり神は人間を不死の存在として造ったのだが、人間はこれを食べたことにより死ぬべき存在になってしまった、という解釈があります。
パウロなんかが、そう考えました。
しかし、旧約聖書学者である月本昭男の『創世記Ⅰ』(日本基督教団)なんかを読みますと、「人間が不死の存在として創造された」などとはどこにも書いてないし、このような捉え方は当時の文法解釈からしては考えにくい、としております。
つまり、後にはこれを食べてしまった人間が、実際には死ななかったことからして、これは、あくまで神の戒めであり、偽りであったと考えられるのであります。
どうも、パウロさんは、自分が死にたくないばっかりに(?)、イエスをメシアと信じることで、なんとか不死、つまり永遠の生を得ようとしていたように思われます。
あえて言えば、イエスをだし(!)にして、自己流の死生観、神学を打ち立てたようにも思われます。
また、もし、特に「食べるな」と言われてはいなかった「生命の樹」の実を食べたなら、それこそ不死の存在となったのか?
第三章には、そのように解釈できそうな神の言葉もありますが、しかし、神はどうも、それは望んではいなかったようです。
だったら、なぜ、この木の実も食うな、と言わなかったのか?
どうも、神の言っていることはちぐはぐです。
だいたい、人間の考えるようなことは全てお見通しの全能の神なのに、人間が禁を犯すであろうことを予想もしなかったというのも変です。
後に神の言葉とは裏腹に、本当は人間が禁を破ることを想定していたのではないのか。
なお、神話や、昔話には「見るな」というタブーがあります。ギリシア神話の『パンドラの壺』、日本神話における、黄泉の国で、禁じられていたのについ、亡き妻の顔を見てしまったイザナギ。
して、もし、素直にその言いつけを守っていたのならハッピーエンド、というか何も起こらなかったはずなのに、そのタブー侵犯によって新たな物語が始まります。
そして、どうもその流れの方が、変な言い方ですが正しい方向なのかもしれないです。
さて、神は「人は一人でいるのはよくない。ふさわしい助け手を造ろう」なんてことで、まず、鳥や動物を造ります。
「助け手」とは「パートナー」ということでしょう。
第一章では、鳥や動物の方が先行して創造されておりますが、第二章では逆です。
また、鳥や動物だって、こと家畜やペットなどは人間の助け手や友人になってくれるはずですが、どうもふさわしいとは思われなかったとあります。
余談ながら、異類婚姻譚というものがありまして、例えばその部族の先祖が動物と結ばれたがゆえに、その動物の持っている能力を授かったと考えます。(※ これをトーテミズムと言います)
陰陽師、安倍晴明の母親は狐であったとされますし、動物ではなく幽霊である雪女と結ばれた男は、その血を引いた子供を授かってあります。金太郎の母親も山姥であったとされ、その怪力は母親譲りだとされます。
話を戻しまして、神はそこでアダムを眠らせ、その肋骨からイブを造ったとあります。
これはフェミニストにきわめて評判の悪いものであります。
ふつにーに考えりゃ、男は女(母親)から誕生します。ここでは逆です。男から女が生まれるのであります。
これをして、「女は男より後から造られたのだから、男に従うべき」なんていう男性優位の考えが見られる、というのであります。
ここでも、先に上げました月本センセの見解では、まず、創造の前後(先後)関係と価値評価は別だとしております。
また、これは、前にも書きましたが、最初に造られたというアダムは、まだ性未分化の存在であったはずで、いっそ無性であったよ考えられます。
イブが造られ、これが女性とされて初めて、アダムは男性になった、区分されたというべきでしょう。つまり、男女は同時に誕生したというべきです。
ただ、フェミニストの主張にあるように、この『創世記』におけるアダムとイブの関係性をもって、確かにここから男性優位の解釈を引き出すことも可能でしょうし、事実、歴史的にはそのようにされてきたともされます。
まあ、聖職者なんてのはみな独身男性で、女性を避けなければならないために、それが憎しみに転化し、女性非難を行っている方々も少なくなかったようですけどねえ。フロイト的に言えば、己の女性に対する欲望を抑制する代わりに、これを女性に対する嫌悪に転換させてしまう。
悪名高い魔女狩りの要因の一つに、こういった男性聖職者の、女性一般に対する裏返しの嫌悪があったとも考えられます。
さてさて、最後に「二人は裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」とありますのが意味深です。
クラーナッハ 『エデンの園』
幼児ですと、まあ、そんなもんでしょう。
羞恥心を抱くのは性的な感情をいだいてからだと思います。
しかし、これは文化規範も関係していると考えられます。例えばの話、熱帯で生きる原住民、こと南米はアマゾンには、俗にいう「裸族」がおりまして、男も女も、最小限の布切れ程度のものしかつけていないとされます。
それもまた、隠すというよりは、性別や年代、社会的地位、未・既婚の別を示すシンボル(記号)のようなものだとされます。
興味深いのは、性器なんか見えても特に恥じらわないのに、腰回りに付けた、そのシンボルとしての紐が切れて落ちたりすると、ものすごく恥じらうのだとか。
日本でも、昭和初期ぐらいまでは温泉などにあっては男女混浴が当たりまえであった、ともされまして、男女ともに、裸に対しそれほど羞恥心を抱いていたとは考えにくいのであります。
山本作兵衛という、九州の炭鉱労働者の方が描いた絵がありまして、そこに「入浴」というタイトルの、恐らくは炭鉱町の共同浴場のものがあります。
山本作兵衛 『入浴』
この絵を見る限り、男女に裸であることの羞恥心は感じられません。
むしろ、これが本来の姿ではないのか。
似たような話が、フランスの画家ゴーギャンを虜にした南の島タヒチがあります。
ここにおける現地の女性たちは、当初、胸を露にしており、この地にやってきた西洋人の宣教師(※むろん、男)が、「なんと、はしたない!」なんて言って、女性達に胸を覆うように説いたとされます。
して、そうすることによって、今度は、女性の胸に性的な意味があるということになり、それまでは胸が露でも平気であった女性達は、胸が露になることを恥じらうようになったとされます。
つまり、この男性性宣教師は、自分のいた西洋社会の価値基準、性モラルをタヒチの人に植え付けてしまったのであります。
ゴーギャン 『果実を持った女性』
な、だからさー、隠すから恥ずかしいんだよ
減るもんじゃなし、見せたれや、ねーちゃん
なーんて言うおっさんもいると思いますが、少なくとも現代の日本ではセクハラになるでしょう。
人間本来の姿、価値観はどうあれ、その時代、社会の文化規範(モラル)には従うべきです。