あやしい宗教学 誰がための宗教か 日本人は宗教を持っているか そこんとこはどーなんだ? | 日々の妄言、ざれ言、たわ言、世迷言

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思いつくことを適当に書き込んで行きます。まことしやかに書かれておりますが、何の根拠もありません。適当に読み流してください。

日本では宗教ブームが三度あったとされます。

 

 

ただし、これは既存宗教が、たまたまその時に一躍脚光を浴びたというのではなく、新しい宗教、つまり言うところの新興宗教が大量発生(?)したということのようです。

 

 

一度目は幕末から明治にかけてで、天理教や黒住教、金光教なんてものが登場します。二度目は戦後間もない時で、創価学会、立正佼成会、成長の家なんてものが出てきます。

 

 

三度目は1970~1980年にかけてで、オウム真理教、幸福の科学、統一教会、エホバの証人、GLA、世界真光文明教団、崇教真光、法の華三行、親鸞会、顕正会などが知られております。なお、二度目のブームの時までのものを「新宗教」といい、三度目以降を「新新宗教」なんて言うそうです。

 

 

 

 

 

 

だったら、おまい、この次に出てくるのは新新新宗教にでもなるんかい?

 

 

 

なーんてツッコミが入りそうな気もします。

 

 

して、既存宗教も含め、いずれの宗教も自分達のものこそ唯一真理の教え、なんて言っているわけですが、例えば仏教キリスト教が二千年以上の歴史を経て今も存続しているのに対し、はてさて、こういった宗教もまた、そのぐらいの歴史に耐えてゆくことができるのか。

 

言い換えるなら、仏教もキリスト教も、その当初は新興宗教とされていたわけです。もっと言えば、歴史的にはもっとずっと多くの宗教が生まれたのでありますが、その多くは消滅しております。

 

 

こういった宗教は、つまるところ人々の支持を得ることができなかったということになりますかねえ。

 

日本の新新宗教の中でもオウム真理教や法の華三行なども消滅してしまいました。

 

 

 

一方の、既存宗教の方ですが、キリスト教こそ、せいぜい年末のクリスマスの時ぐらいしかスポットを浴びませんが、仏教神道は意外にも根強いですねえ。

 

 

こと仏教は、葬儀や、日本古来の習俗である祖先崇拝と結びついておりますし、奈良や京都などの観光寺院(?)は参拝者が数多く訪れているはずです。こと最近は海外の方も多いのだとか。

 

また、禅宗(※ 曹洞宗、臨済宗、黄檗宗など)にあっては、座禅の体験を売りにしているようなところもあります。

 

 

神道は、寺院と同じく初詣を含めて、やはり数多くの参拝者を集めております。

 

 

 

これでいて、日本人の多くは無宗教を自覚しているというのですから、海外の方に驚かれるわけです。

 

 

また、少し大きな書店に行きますと宗教コーナーなんてのがありまして、数多くの宗教書が置いてあります。中には、オカルトチックな、ちょっと怪しげなものもありますが。

 

まあ、しかし、どこからがどこまでが「まともな宗教」か、そうでないかは個々人の解釈の相違でしょう。

 

 

一方、イデオロギーや思想の中にも、どちらかと言えば宗教がかったものがあるように思います。

 

 

儒教なんかは、厳密には倫理規範を説くもので宗教ではないとする立場もありますが、宗教にくくられる場合もあります。

 

共産主義や、実存主義、フロイトやユングの深層心理学といったものも、実は宗教ではなかったか、なんてことを言う方もいます。

 

 

 

共産主義は宗教だった !?

 

 

 

 

個人的には、フロイトはともかく、ユングの主張はかなり宗教がかっているように思います。

 

 

 

また、新興宗教の中には、仏教系、キリスト教系、神道系とありまして、その土台は確かにそういった既存宗教なのですが、実際は、そこから大きく乖離してしまっているものもあるように思います。

 

 

※ 例えばエホバの証人は、キリスト教の一派というよりは、キリスト教系新興宗教だと言われております。

 

 

さて、そんな宗教ですが、誰しも、長い人生の中でつまづいたり、悩みを持ったりすると、そこに助けというか、救いを求めて、こういった宗教の本を手にする方も少なくないのではないかと思います。

 

 

また、特定の宗教の本というよりも、宗教一般の解説書、なんてものもあります。

 

 

この『誰がための宗教か』なんて本がそうですし、日本思想史が専門の阿満利麿の『日本人はなぜ無宗教なのか』、『人はなぜ宗教を必要とするのか』(いずれも筑摩書房)は、よく売れたとされますし、宗教学者の島田裕巳も、『浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか』、『なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか』、『葬式は、いらない』(いずれも幻冬舎)、『神も仏も好きな日本人』(筑摩書房)なんて本をいくつか出しております。

 

 

これらは、ただ単に数多くの宗教の内容を紹介する、つまり概説書というものではなく、もう少しその中身まで踏み込んだものだと思います。

 

思うに、宗教に関心があっても、いきなり具体的な特定の宗教に関わるというよりも、こういった解説書を読んでからの方がいいように思います。

 

 

例えばの話、キリスト教に興味をもって新約聖書なり、旧約聖書なりを最初のページから読んだって、2~3ページ読んだだけで挫折するでしょうねえ。

 

 

なに言ってんだか、ぜんぜんわかんねー!

 

 

 

なーんてねえ。

 

 

だいたい聖書なんてものを、解説書もなしに、いきなり読んだってわかるわけがない(と思いますけど)。

 

 

 

しかしながら、これ、何度か書いてきておりますが、我々日本人が全く宗教というものに無関心かというと、そんなこともないのでありまして、先にも書きましたように、初詣ともなれば数多くの、いっそ大半の方が神社仏閣に詣でるはずです。

 

盆や正月、そして彼岸、あるいはいくつもの季節行事も、これは宗教が絡んだものも少なくないのでありますが、特段そういうことを意識しているという方も少ないように思います。

 

宗教というよりも、単なる文化慣習、行事、習俗としているのでしょう。

 

 

以前、こういう日本人の宗教感覚を、あっしは「日本教」なんて言ったことがあります。そして、ほとんどの日本人が、意識する、しないとかに関わらず、みなこの信者だ、なんてねえ。

 

 

クリスマスだって、あれは、この日本教における一つの儀礼(!)にしてしまっているように思います。キリスト教そのものは、クリスマスだからって「ケーキを食え」なんて説いてはいませんが、日本教に組み込まれた場合、ケーキを食わないなんてのは邪道であり、破門(!?)にされかねないのであります。

 

 

ゆえに、たまたま、へそ曲がりな奴がいて「なんで、クリスマスなんて毛唐の邪教に浮かれて、食いたくもないのにケーキなんか食うんだ」なんて言おうものなら、これはもう異端の徒とされ、白眼視されるはずです。

 

 

同じことは、大晦日には年越しそば、正月には餅、そして土用丑の日にはウナギ、なんてものを食わないと「日本人じゃない」、いっそ「非国民」なんて言われそうな気もします。

 

 

 

土用丑の日にウナギを食わないと非国民!?

 

 

 

また、神社仏閣に詣でるというのも、だからと言って、そういう方々がみな、仏教や神道の信者としての自覚を持っている、とは考えにくいです。

 

 

例えば、京都の清水寺は、南都六宗の一つである法相宗系(※北法相宗)の本山ですが、参拝者がみなその信徒というわけではないでしょう。

 

同じく、伊勢神宮に詣でる方がみな、神道の信者という自覚があるとは考えにくいです。

 

 

 

ただし、明治から終戦までは、日本人はことごとく国家神道の信者とされておりました。

 

 

 

現在では、こういった神社仏閣に参拝するというのは、いっそ観光的な要素が大きいと思います。また、御利益を求めてということであるにしても、だからといって日頃から、神や仏を信仰しているということでもないでしょう。

 

 

せいぜいが「苦しい時の神(仏)頼み」であり、本音を言うなら、

 

 

 

神様だろうが、仏様だろうが、御利益があるなら何だっていーんだよ

 

 

 

であり、これは、それこそ「鰯の頭も信心から」でして、他にも大阪は通天閣のビリケンさんとか、中華街の関帝廟(※ 中国の『三国志』の英雄、関羽を神として祀る)とか、いっそ、パワースポット霊地なんて場所を訪れることが当てはまると思います。

 

 

 

 

 

 

ゆえに、こういった神社仏閣に行きながら、参拝もせず、ただそこが雑誌に紹介されたパワースポットだからということで、うろつきまわるだけ、なんて人も出てくる。

 

 

 

 

神や仏をナメとんのか

 

 

 

とは、こういった神社仏閣の関係者の非難だそうです。

 

せめて、お賽銭ぐらい落として・・・、いや、奉納して行け、ということなのか。

 

 

 

しかしながら、こういうパワースポット信仰(?)なるものも、宗教と言えなくはないように思います。

 

もっと言いますと占いなんてものも、そうでしょう。

 

 

宗教には超神秘的な面がありまして、手品を英語ではマジックと言いますが、これは本来は魔術であり、この魔術は宗教が絡んだものとされます。言うなれば神のような超越的なパワーを得る、利用するということなのであります。

 

 

占い師などは、宗教学的に言えばシャーマン(霊能者、祭司)になるはずです。

 

彼らは神の声を聞いたり、神の力を授かったりもするとされますからねえ。

 

 

まあ、こういった神なり、霊の言葉を聞くという、つまりは、それは主観的というか、自己主張ということにすぎないわけですが、そして中には怪しげな方もおりますが、全てが全てそうだとは言えないように思います。

 

 

キリスト教は旧約聖書の預言者(※ 予言者ではなく、あくまで神の言葉を預かる方)などがそうでしょう。

 

 

一方、古今東西の様々な神、さらには過去の偉大な人々、あるいは今も生きておられる方の声が聞こえる、自身の口を借りて語る、つまり青森は恐山のイタコのような霊媒者のような方、というか、自称・地球の最高神なんて方もおります。

 

 

 

 

 

 

そういうことをどこまで信じるかは個々人の解釈の問題でして、他人がとやかく言うものではないと思います。

 

信じる者は救われる」でして、それで自分が救われたと思っておられるなら、それはそれでいいのではないかと。