イエスが誕生する1200年も前に、モーセの後継者であるヨシュアが率いるユダヤ民族は、ついに「約束の地」であり「乳と蜜の流れる地」であるカナンに到達します。
この歴史が旧約聖書の『出エジプト記』に続く『ヨシュア記』、『士師記』に描かれております。
しかし、そのカナンの地で歓迎されたわけではなく、むしろ、その地を捨てた以上、そこには別の民族が占有していたわけです。して、ユダヤ民族の言い分は「この土地は神が自分達に与えてくれた土地なのだ」という、あの決めセリフでした。
随分と勝手な言い分ですが、そんなわけのわかんねー大義名分よりも、要は実力で取っちまえばいい。動物のテリトリーだって、そこを守れない奴は、新参者に明け渡すしかない。
この時、ユダヤ民族は12部族(支族)があったとされ、その共同軍で戦線を張り、なんとか勝利したようです。このような団結力があったからこそうまくいったのでしょう。『俺達にゃ、ヤハウェの神様が付いてるんだ。なーんにも怖いものなんかねーよ、同志』なーんてねえ。
んで、モーセが神と交わした契約の書が納められた聖櫃(せいひつ)を神輿のように担いで戦ったともされます。
神との契約書が納められた聖櫃(アーク)
かつて、高校野球において甲子園の強豪校にPL学園がありましたが、この強さを称し「やっぱり、神様がバックについている学校は強いなー」なんて言ってた方がいました。
元寇の時にも、日本は神国ということで、恐らくは八百万の神々がバックアップしてくれたのか、これを食い止めてますからねえ。
思うに、いずれも実際に神が助けてくれたというよりは、自己暗示効果があったように思います。
讃美歌に「立てよいざ立て」という、勇壮な曲がありまして、これなんか聞きますと、転んだあっしでも、思わずアドレナリンがバンバン出て、いっそもう十字軍があったら参加しようか、なんて思いますからねえ。
立よいざ立て 主の強者(つわもの)
見ずや み旗のひるがえるを
すべてのあだをほろぼすまで
君は先立ち 行かせたまわん ♪
ドラクロワ 『民衆を率いる自由の女神』
気分はもう、フランス革命に立ち上がったパリ市民の気持ちにもなります。
ただ、最近、ちょっと腰を痛めましたので、できれば後方で炊き出し支援なんかを・・・。
(口先だけの、へたれ、です)
さて、ヨシュアの死後、「士師」と呼ばれるリーダーが登場します。カナンの地に定着したとはいえ、んなもなーテリトリーですから、自分達がそうしたように、他の民族だって力づくで奪いに来るかもしれず、今度はこの地を守らねばいけない。
そんな中の一人に怪力を誇るサムソンという方がいました。
しかし、この方、「英雄、色を好む」じゃありませんが、どうも女にはだらしなかったようです。
この時代に、海洋民族であったともされるペリシテ人が攻めてきます。なお、この「ペリシテ」こそは、現在の「パレスチナ」の語源になったともされます。
当初は、このペリシテ人も、サムソンには敵わなかったようですが、そこで彼らは一計を案じ、デリラという妖艶な女性を用いて、サムソンに巧妙に取り込ませます。そして、彼の弱点を上手いこと聞きだしてしまいます。
彼の弱点は、なんと髪の毛を剃られてしまうと、その怪力が失われるというものでした。
アンソニー・ヴァン・ダイク 『サムソンとデリラ』
こうして憎っくきペリシテ人は、まんまと、その弱点を責め、さらには目をつぶし、彼を見世物にしてしまうも、彼は神に祈り、その怪力を何とか取り戻し、ペリシテ人のいた神殿の柱を引き倒し、これを崩壊させ、彼らを道連れに壮絶な死を遂げます。
この話は映画にもなりました。
ついでながら、こちらは旧約聖書の外典(※ 正規の聖書から外れたもの)にあります『ユディト記』に登場するユディトという、こちらはユダヤ人の女傑は、敵方の将軍に酒を飲ませ、うまいことたぶらかし、寝室に誘い込み、その寝首を斬るという、怖い女性です。
カラヴァッジオ 『ホルフェルネスの首を斬るユディト』
古今東西、こういった妖艶な女性に、上手いことたぶらかされた男は何人もいたようです。
甘い言葉に誘われて、鼻にしたなんか伸ばしているとロクなことはない、と。
ねえ、心優しいねずみ男さーん
あんだよ。また、女子トイレの便器が詰まったってか?
あっしは、水道屋でも便利屋でもねーぞ!
他にも、切れた蛍光管を替えろだの、重いコピー用紙の入った箱を倉庫まで運べだの、こういう時に女性はなんで、あのような甘ったるい猫撫で声を出すのか?
えー、話を戻しまして、この士師の最後にサウルという、戦(いくさ)上手の方が登場し、彼こそは民族的英雄だということで、サムエルという、こちらは預言者にして宗教的な指導者から、油を注がれ、つまりこれは「王としての地位を与えられる」ということですが、初代ユダヤ国王となります。
ちなみに、この「油を注がれる = 聖別の儀礼」こそは、後には「油をそそがれた者・メシア(救世主)」というものになります。
そして、この初代王の跡を継ぐのは、元々は羊飼いであったダビデであります。
これが書かれているのが『サムエル記(上・下)』であります。
戦い方もうまく、頭も切れ、さらにはイケメンであったとも言われる、まさにたぐい稀なる英雄という素質を備えたダビデは紀元前993年に二代目の王として即位します。
彼はユダヤの国、つまりイスラエルの国土を整備し、拡大し、それこそ大イスラエル王国を作り上げます。
ただ、この方もまた女性にはだらしない方であったようで、人妻を誘惑し、その旦那を戦いの最前線に送り出し、戦死させ、非難されております。
しかし、それを差し引いても、彼のカリスマ性と人望は相当なものであったらしく、後になっても、彼のような英雄、いっそメシアが期待されておりました。
そのメシアこそは「ダビデ王の再来」と考えられていたようです。
言うまでもなく、後にイエスがそうではないかとされております。
このため、新約聖書におけるマタイ、ルカなどは、かなり怪しげな系図なんかを捏造し(?)、イエスこそはダビデの子孫なのだ、なんて主張しております。
ここにツッコミをいれるなら、その系図に繋がるのは、イエスの義理の(?)父親(※ マリアは処女懐胎でイエスを産んでますからねえ)であるヨセフでして、つまり、血の繋がりはないのであります。
そこんとこはどーなんだ!
と、いろいろと調べてみますに、中には相当に手の込んだ屁理屈を並べて、その妥当性、正当性を主張している神学者もいましたねえ。
まあ、これはメシアの再来を願っているユダヤ民族に向けてのものであり、こんなーもなーでっち上げだとしても、イエスの説いたことの真価が問われる、ということもないと思います。
仮にキリスト教を信仰するにしても、聖書に書かれていることを全て真実だと鵜呑みにすることはないと思います。