あやしい宗教学 祈願と呪術 ただ祈るのと、大宇宙の真理を知り、それを自在に動かす ー 密教 | 日々の妄言、ざれ言、たわ言、世迷言

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思いつくことを適当に書き込んで行きます。まことしやかに書かれておりますが、何の根拠もありません。適当に読み流してください。

たまたま読んでいた、ヒンドゥー教の解説書の中に、バラモン(祭司階級・聖職者)が当初は「神々への恭順な祭祀者」であったのが、呪力によって「神々を駆使する呪術者」に変化した、とありました。

 

 

この結果として神々の威信は低下したのだとか。

 

まあ、そうでしょうねえ。「お願い」するという下位の立場から「させる、やらせる」という上位の立場に変わったわけですから。

 

 

 

この「神々への恭順な祭祀者」というスタンスは、日本の神道にも当てはまるでしょう。「雨乞い」でも「病気の治癒」、「豊穣」でも何でもいいのですが、これは、あくまで「祈願」という行為です。神社において奏上する祝詞にあっては「かしこみ、かしこみ」なんてものがありますが、これは神に対し、ひたすら恭順の意を示し、その前に畏(かしこ)まるという意味です。

 

 

 

 

 

 

 

つまりは「~してください。お願いいたします」なのであります。

 

 

思うに、宗教の原初形態というのは、大自然、宇宙にあると考えられた超神秘的な力をもって君臨する神々に対し、その足元にも及ばないようなちっぽけな人間が、ひたすら恭順の意を示し、誠意を見せて祈るものであったように思います。

 

そして、このような祈願というものは現代にも受け継がれているわけです。

 

 

これに対し、「呪術」というものは、人間が、そういった超自然的な力、もしくはそれを有する神々に働きかけ、何らかの願いを叶えようとするものでしょう。祈願が消極的なものとすれば、呪術は積極的なものともいえると思います。

 

 

日本において、このような呪術はといいますと、一般的には陰陽師であった安倍晴明がなしたものを思い浮かべると思いますが、実は仏教にも「密教」と呼ばれているものがあります。

 

 

密教というのは、秘密教とも言われたりもしますが、神秘的な宗教、宗派を指します。呪術(※魔術)を重視する面もあります。

なお、こういった立場は、例えばキリスト教にもあります。

 

 

日本の仏教にあっては、最澄空海が、これを中国から伝えました。天台宗のものは「台密」、真言宗のものは「東密(※ 京都の東寺がその拠点であったため)」などと称されます。

 

 

もともと、この密教はインドにおける大乗仏教の中に生まれたもので「私たち各人の内面、あるいは全身によって、神、仏などの超越的存在、もしくは宇宙という超越的世界と、直接的に交流し、その存在を直接把握し、それらと一体になろう」というものだとか。

 

(『密教の本』 学研 「密教の歴史」より)

 

 

 

よく人間は小宇宙(ミクロコスモス)であり、大宇宙(マクロコスモス)に包まれ、その一部を成す、なんてことがいわれますが、宇宙(コスモス)ということについて言えば両者は同質なのだとか。

 

 

 

 

 

 

西洋ではプラトンの考察が有名のようですが、似たような考え方は世界各地にあり、古代インドにもあったと考えられます。

 

 

して、「この広大なマクロコスモスの真理を知り、それを動かす方法を会得すれば、人間も自らが属する大自然から限りない利益を受けられる」のだそうです。

 

 

何やら、あまりにも壮大なスケールの話で、あっし自身もよくわからないのですが、要は宇宙における深淵なる摂理があり、それを知り、それを自らが活用できるなら、超神秘的な力も思いのまま、ということのようです。

 

 

釈迦自身、まず月を目前に感じ、それを胸中に引き入れ(?)、自身が月そのものになり(!?)、それをさらに広げてゆくと、ついには大宇宙との一体感を得る(!!??)ことができた、とされます。

 

 

 

 

わかりますか?

 

 

すいません、あっしは、

 

 

 

特別出演 『行け!稲中卓球部』 前野君

 

 

 

 

 

あっしは、この辺りで、もはや「脳みそバーン」状態に陥ります。

 

なお、これこそが空海の説く「即身成仏」なのだとか。

 

 

あっし自身、仏教というのは様々なことからの執着を離れることこそが解脱、つまり悟りに至る道だと解釈しておりましたが、空海の説くのは、やや異なり、このような宇宙(真理)との一体化こそが目的のようです。

 

 

(すいません、この辺りは勉強不足で、あっし自身、まだよくわかっておりません)

 

 

さて、このような超神秘的な思考に基づく密教、いっそ呪術仏教とでもいうべきもの、信者たちの悩みに応えるために、治病や憑き物落とし、雨乞い、止雨、怨敵退散といったものに用いられたといいます。

 

 

密教では、護摩を焚きますが、これはそれこそ「祈願」というよりも「呪術」でしょう。最澄や空海は、天皇をはじめとする公家たちの治病に、それこそ経を読んだり、護摩焚きをしたりしたようですが、こういったものは単に神仏に祈るというよりは、密教の持つ神秘的な力によって実際に治そうというものであったと思われます。

 

 

こういった治病行為は、例えばキリスト教におけるイエスなども行っていたと考えられます。

 

 

現代にあっては、病気にはメンタル、つまり精神的な要素が絡んだものも少なくないことが分かっておりますが、そして「病は気から」なんて言葉もありますが、思うに、こういう場合、暗示効果の作用が働いたのではないかとも思います。

 

 

なお、日本では、この密教が最澄や空海によって正規に伝えられる前に、「雑密(ぞうみつ)」といって、十分に体系化されたものではないものが伝わっていたようでして、これらの新旧密教を日本固有の信仰である山岳修行の中に取り入れ、これが後には修験道というものになったとされます。

 

 

して、この修験道ですが、簡単に言いますと大自然の中から神秘的なパワー(力)を得ることを目的とします。

 

しかし、実際は、心身を鍛え、恐らくは自身の有する潜在的な能力、可能性を最大限にまで引き出すことなのではないかと思います。

 

 

よく言われますように、我々人間の脳の機能の大半(※ 90%以上という説もあります)は使われないまま、その一生を終えてしまっているのだとか。

 

 

 

 

 

まあ、あえて言えば、その必要性がなかったら、潜在的に有するそういった脳機能は使われることもなく、それこそ「宝の持ち腐れ」状態にあるのでしょう。

 

 

戦争などの、生きてゆくのがきわめて危険な限界状況などにおいて、生き残るために、俄然、その能力を発揮するような方がいたとされますし、我々の日常的世界にあっても、特異な状況にあって、いきなり頭角を現すというか、才能を発揮するような方もおりますからねえ。

 

 

あっしがいた、かつての職場には、仕事の上ではあまり評価されていませんでしたが、社員旅行や宴会といった時には、自ら進んで幹事を引き受け、その才能を開花(!?)させていた、通称「宴会部長」と呼ばれる方がいましたねえ。

 

んで、「あいつは、いつもは倉庫にしまっておいて、そういう時だけ出せばいい」なんてことを言う方もいました。

 

 

 

かくいうあっしも、陰険パワハラ上司に「お前も・・・、使いようでは切れるなー」なんて、ハサミと同レベルのものと言われたことがあります。

 

 

いつか、殺す』って、思ってました。

 

 

なんなら、密教の秘技、呪殺術を持って呪い殺してやろうか、とも。

 

 

 

 

60年代、公害垂れ流し企業に敢然と立ちあがった呪殺祈祷団

 

 

 

なお、このクソ上司が、ひょんなことで急死しても、刑法的には「不能犯」ということで、あっしは罰せられないはずです。

 

 

ざまーみやがれ、なのであります。