あやしいキリスト教 信じる者は騙される? 幸せならそれでもいいのか、という救済宗教 | 日々の妄言、ざれ言、たわ言、世迷言

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思いつくことを適当に書き込んで行きます。まことしやかに書かれておりますが、何の根拠もありません。適当に読み流してください。

日本の宗教学者の第一人者の一人ともされます島薗進という方の本に『宗教の基本・なぜ「救い」をもとめるのか』(NHK出版)という本があります。

 

その中で、宗教の区分として「創唱宗教」(教祖がいて説いたもの)と「自然宗教」(自然発生的なもの。民間信仰など)に分けられるとしております。して、この「創唱宗教」には「世界宗教」と「民族宗教」に分けることもできるでしょう。

 

※ 民族宗教というのは、その名の通り、その民族に限られたものでヒンドゥー教、ユダヤ教、日本の神道もそうでしょう)

 

 

「世界宗教」ともなりますと、これはキリスト教、イスラム教、仏教ぐらいです。して、島薗センセは、この「世界宗教」こそは「救済宗教」とも言うべきものだとしております。

 

 

ただし、仏教は、少なくともその初期の仏教は個々人が解脱に達する、つまり悟りを開くということを目的とするものであり、これは「自力本願」、すなわち、自ら努力して救済を目指すというものでしょう。

 

死について言えば、あっし自身は、釈迦は「死」は「黙ってそのまま受け入れるもの」と説いたように思ってますけど。

 

 

 

日本では親鸞が説いたように、御仏(※ 阿弥陀如来)の慈悲にすがる、救済してもらうという他力本願的なものもあります。

 

 

さて、キリスト教もまた「救済宗教」ということになりますが、そこで言われている「救済」、言い換えれば「救い」というものはどういうものなのか。

 

 

島薗センセは、必ずしもキリスト教の絡んだものではないが、敬虔なクリスチャンであったというアンデルセンの有名な童話『マッチ売りの少女』に、その救いが示されている、としております。

 

 

 

大晦日。その日は寒く雪も降っている中を、マッチを売って歩く少女。家々の窓からは、明るい光の中、楽しげな食卓の様子が見えます。

 

マッチは一つも売れず、もし、そのまま帰ったら(飲んだくれの?)父親にぶたれる。

 

 

あっしが、仮にこの少女だったら、

 

 

 

こんな日は、どこでも、みなで楽しそうな食卓を囲んでいるというのに

なんで、あたしだけが、こんな辛い思いをしなくてはいけないの?

 

世間、いえ、世の中が悪いんだわ。いっそ、火を付けてやろうかしら

 

 

 

なーんて物騒なことを思ったかもしれないです。

 

なお、日本の刑法では第108条・現住建造物等放火罪で、最悪は死刑となります。京都アニメ事件の容疑者などがそうでしょう。

 

 

よい子は真似をしてはいけません。

 

 

(しねーよ!)

 

 

物語の中の少女は、そんな物騒なことは思いもせず(※ 普通はそうでしょう)、あまりの寒さに耐えかねてマッチを一本すります。なんと、温かいこと。でもすぐに消えてしまい、また一本。今度は大きなクリスマススリーが見えます。

 

続いてもう一本。そこには彼女を可愛がってくれたお婆さんの姿があります。

 

 

 

思うに、これらは彼女の幻覚でしょう。

 

ひもじく、凍えるような寒さの中、彼女は次第にその意識がもうろうとしてきたのでしょう。

 

 

最後に、彼女は全部のマッチに火を付けます。

 

 

 

 

 

再び、お婆さんが現れ、彼女は少女を抱きしめてくれます。二人は光と喜びに包まれ高く高く昇っていったのだとか。

 

もはや、ひもじいことも、寒いこともない。二人は神様に召されたのだ、と。

 

 

 

して、島薗センセの解説です。

 

 

・ 少女は辛い現実世界を超えていったと感じた

・ 尊いものに触れることで、苦しみと孤独と、死を超えていった

 

 

 

思うに、最後は、彼女は自身の幻覚をもってして満たされた思い、いっそ救いがあったと感じていたのでしょう。

そう感じて、息を引き取ったというのなら、まさに島薗センセの言うように「死の超越」でしょう。

 

 

評論家の立花隆の『臨死体験』という本を読みますに、死にかかった(?)方の不思議な体験の話が幾つも紹介されております。

 

 

 

 

 

 

その多くは、それこそ見渡すばかりの美しい花畑が見えた、なんて、それこそ、我々が空想する「極楽」や「天国」の世界のようです。

 

 

このような体験者は、「もう、死が怖いものとは思わなくなった」なんて言っている方もいます。

 

これもまた「死の超越」なのか。

 

 

なお、解剖学者であった養老孟司は、人間の脳は、死ぬ前にエンドルフィンなどの、俗に「脳内麻薬」なんて呼ばれる物質が大量に分泌されるから、このような幻覚が生じるのではないかとしております。

 

 

 

アンデルセンに続き、矢内原忠雄という、東大の総長も務めた厳格なるクリスチャンであった方の『キリスト教入門』の本の中には、結核療養所で亡くなったという、クリスチャンの青年の最後の言葉が紹介されております。

 

 

 

天のお父さん、私は罪人でした。私は救われました。感謝です

 

 

 

この方も、死の直前に、何らかの幻覚を見ていたのか。

 

矢内原センセは、この青年はクリスチャンであったからこそ、このように救われたのだ、としております。

 

 

 

 

どーだ、羨ましいだろう

 

ほーれ、ほれ。こっちの水は甘ーいぞ

 

美しく、優しい聖母マリア様も待ってるぞ

 

お前も、こっちにおいでー

 

なーに、悪いようにはしないから

 

 

 

なーんて、言外のニュアンスを感じます。

 

 

あっし的には、繁華街の裏通りなんかで、妖艶そうなおねーさんが、

 

 

 

ウルビーノのヴィーナス

 

 

 

なーんにも怖がらなくてもいいのよ

いらしゃーい。天国に連れて行ってあげる

 

 

 

なーんて、甘く囁きかけてくるように感じましてねえ。

 

 

 

然るに、「男と女の間には、深くて長い川がある」なんて歌ではありませんが、それを越えてしまったら、もはや帰ってこれなくなるような気がしてますから、踏みとどまってます。

 

 

もし、ほい、ほい、その気になって付いていっていったら・・・、気が付いたら、駅前で「あなたは神を信じますか?」なんて、見知らぬ人々に声を掛けている、とか。

 

 

 

さてさて、考えてみますに、このようなキリスト教で説いている救済、救いとは、つまるところ「死の超越」ということなのか。

 

マッチ売りの少女も、結核であった青年も、「救われた」と感じて死んでいったように思います。

 

 

しかし、死んでしまったら、救済、救いもないのでは?

 

それとも、その先、続きがあるのか?

 

 

二人とも、いわゆる「天国」に行ったのか?

 

 

ただし、この「天国」なるものは、そういうものがあると想定してのことでしょう。まあ、中には「あるのだ」などと断定する方もいますが。

 

 

仮に、先の臨死体験者の方の話にあったように、その「天国」なるものは、我々の脳が最後に見せる幻覚に基づいたものではないのか。

 

しかし、やはり、臨死体験者の言葉に「死が怖くなくなった」とありましたが、この方も、それこそ「救われた」というべきではないのか。

 

 

 

嘘なら嘘でいいから、バレないようにして」、「いっそ、騙し続けて」なんて女性の言葉(※ 歌謡曲など)がありましたが、それこそ「騙されて」(?)死んでいった方が幸せ、なのか。

 

 

末期ガンで亡くなった方など、その末期は大変な苦痛が伴うそうで、「地獄だ」なんてことを言っていた方もいましたが、あえて言うなら、こういう方々にとって死は救いと言えるかもしれないです。

 

 

このテーマを扱ったのが手塚治虫の『ブラック・ジャック』で、そこに、依頼を受けて安楽死させるドクター・キリコなんていう医者が登場します。

 

 

 

手塚治虫 『ブラック・ジャック』

 

 

 

 

この、安楽死についてはいろいろ意見も分かれるようですがねえ。

 

 

ちなみに、あっしの場合、歯医者(歯科医院)で、奥歯の治療で神経を抜かれた時、麻酔はしてるんですが、もう、痛いのなんのの。

 

 

で、

 

 

 

いっそ、殺してくれー!

 

 

 

なーんて気になったことがありましたけど。

 

 

次回は、このキリスト教の「救い」なるものを、主にパウロの主張に沿って考えてみたいと思います。