あやしいキリスト教 キリスト教は狂信者パウロの説いた終末論に振り回されている? という暴論 | 日々の妄言、ざれ言、たわ言、世迷言

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思いつくことを適当に書き込んで行きます。まことしやかに書かれておりますが、何の根拠もありません。適当に読み流してください。

キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるしあなた方の信仰も無駄です

 

                       (コリントの信徒への手紙 15-14)                            

 

もし~なら、~ではない」という仮定文です。

 

 

つまり、パウロの主張は死んだイエスが(驚くべきことに)、(あるいは神の子だからこそ)復活した、という事実(ではなく、イエスの弟子達やパウロの幻視体験、あるいは妄想)の上に成り立っております。

 

 

 

復活したイエス ?

 

 

 

 

例えばの話、あっしが、

 

 

 

死んだはずのイエスが復活して、一蘭でラーメン食ってたぞ

替え玉も注文してた

 

 

 

なーんて言っても、まずもって誰も信じて、いっそ相手にもしてもらえないでしょう。

 

なぜ、パウロの言ったことは事実だとするのか。

 

 

 

実はユダヤ教にあっては、死んだ人間が復活したという話がありまして、「そういうこともあるんじゃないのか」という信仰が一部の方々に広まっていたとされます。パウロはパリサイ派ですが、このパリサイ派は義人(神の目から見て正しい人)は復活するのだ、と考えていたともされます。

 

 

旧約聖書の『ヨナ書』にあっては、預言者ヨナが最初、神の命令に従わなかったために大きな魚(※ クジラ?)に飲み込まれるも、三日目には吐き出された、なんてあります。

 

 

 

 

 

ヨナ ニネベにいらっしゃい 

いいえ、行きたくない

 

大きな魚、ヨナを飲んだ

ヨナは恐れて 助けて、助けて

 

ヨナ ニネベにいらっしゃい

はい 行きます ♪

 

 

 

三つ子の魂百までも」じゃありませんが、通っていたミッション系保育園で、あっしが覚えさせられた歌です。

 

 

 

神様の言うことを聞かない悪い子は、こうなる。(最悪は逆さ磔の刑だ)

 

 

 

なーんて言われて、楳図かずおの怖い絵を見た時のように、ビビりまくっていたような気がします。

 

 

 

 

 

 

以来、たとえ車も走ってもおらず、誰も見ていない交差点の赤信号であっても、青になるまでじっと待っているような正しい人(義人)というか・・・、些少の悪いこともできない小心者になってしまったような気がします。

 

 

 

んで、この『ヨナ書』の話は、死んだイエスが三日後には復活したというものに繋がるのだとか。

 

強引なこじ付けのような気もしますが。

 

 

さて、この死んだ者もまた(※ 義人、パウロ流に言えば、イエスをメシア・キリストと信じる人)復活するのだとパウロは言っております。

 

しかし、このパウロの主張は彼の生きていた時代の人々のことで、それ以降の、例えば現代に生きているクリスチャンのことまで想定しているとは考えにくいです。

 

 

して、その時(「days」というのだとか)こそは終末であり、主(イエス・キリスト)が合図のラッパとともに、天から主(イエス・キリスト)が再臨し、ここにおいてこそ、それまでに亡くなった人々が復活し、彼らは天に上げられるのだと、パウロは言っております。(テサロニケの信徒への手紙 Ⅰ)

 

なお、この終末は、パウロによれば、それは自分がまだ生きているうちに到来し、自分は生きたまま天に連れて行ってもらい、永遠の命を得るのだ、としております。

 

 

 

「そのようにあればいいな」ではなく、「そうなのだ」であります。『天才バカボン』の親父のごとく断定してます。

 

ふつーは、こういう方を「狂信者」というんですけどねえ。

 

 

 

で、自分だけでそう思って幸せである、というなら、そんなこたー個人の勝手な思い込み、いっそ幻想で、何の問題はないわけですが、この方、「皆さん、そう信じなさい」なんて新興宗教の教祖(勧誘者)のように説いて回った。

 

 

アホくせー。んなこと信じられっか

 

 

 

という人々もいたんでしょうが、中にはTV通販やネットショッピングで「こんな効果があります」なんて言われていることを、、あるいは「必ず儲かるギャンブル必勝法」、「絶対に損をしない先物取引入門」なんてものを、素直に信じてしまう方だっていると思います。

 

 

 

さてさて、この終末論なるものですが、当時のユダヤ社会におきましては、言うなれば予定論というか、パウロの言葉に従えば「神の計画」、つまり、神は天地創造と同時に終わりもまた定めた、というような考え方が、「黙示論」という形で継承されてきたとされます。

 

ちなみに、イエスその人はと言いますと、例えばマルコの福音書の13章にあってはイエスが「終末、終末が来るなんて言って、うろたえてるな」なんて言っております。

 

 

実は、あのオウム真理教の教祖様(故人)も、そう言って信者を引き連れ沖縄方面に集団疎開したなんて話があったと思いましたが、エホバの証人もまた何度か「この世の終わり(ハルマゲドン)」が来る」なんて言ってましたが、ことごとく外れてます。

 

 

 

 

ミケランジェロ 『最後の審判』

 

 

 

 

当時のユダヤ社会でも、そのようなことを言っている方が、それこそパウロも含めていたのでしょう。

 

 

して、このような終末論、もっと言えばその時における「最後の審判」という考え方ですが、実は、もともとは古代ゾロアスター教のものだとされまして、ここには人間は死後に審判の結果によって、善人は天国へ、悪人は地獄へ、ということが説かれていたとされます。

 

 

ユダヤ民族は、国を滅ぼされバビロニアに捕囚された時に、この終末論に影響され「黙示論」的信仰を持つようになったとされます。「黙示」とは「隠されていたことがあきらかにされる」という意味です。

 

 

して、旧約聖書『イザヤ書』、『ダニエル書』などに、このような終末論が説かれ、いずれその時が来れば、それまでに亡くなった全ての死者が復活し、神による審判を受け、選ばれし者は天国に行けるのだとされていたようです。

 

 

なお、この時、異邦人がイスラエルの神(ヤハウェ)を(唯一の神として)礼拝しにやって来るだろう、なんて『イザヤ書』にはありまして、これを元にパウロは、その異邦人の教化、つまり異邦人への宣教は、神が自分に与えた使命だ、なんて、あえて言えば勝手に思い込んでいたようです。

 

 

これまた「そうあったら、いいな」という期待や願望が「そうなる」という確定預言(?)にされております。

 

それこそ「ユダヤ人による、ユダヤ人のための、ユダヤ人の宗教」、つまりは民族宗教、自分達ユダヤ民族を中心とした宗教こそがユダヤ教なのであります。

 

 

パウロもまた、そういう視点で考えていたのであります。

 

 

しかしながら、この終末なるもの、先に書きましたようにエホバの証人もまたそうでしたが、一向にやってくる気配がない。

 

 

 

 

 

 

 

おっかしいなー、まだかな。もう来たっていいようなものだが」なんてパウロは慌てふためいております。

 

 

なんせ、当初は、「みなさんの生きているうちに必ず来ます」なんて言っていたようですから。

 

そのうちに、信者の中には死んでしまうものもいる。

 

 

 

どーなってるんだ。話が違うじゃねーか

 

 

なーんてことにもなろうというもの。

 

 

で、パウロさんは、例えば「死んだ方は、その時が来たら最初に復活させてもらえるから」なんて、苦し紛れに勝手な約束を取り付けてます。

 

あえて、ツッコミをいれるなら、「なんで、あんたに、そんなことがわかるのだ」って、もんでしょう。

 

 

 

そのうちに、あろうことかパウロ本人が捕らえられて殺されてしまいます。

 

 

「なんだ、あのパウロの野郎、適当なこといいやがって」で終わると思いきや、カール・ブッセの「山の彼方」の詩ではないですが、「山の彼方」ではなく、「山の彼方の、なお遠く」に幸いがあるんだ、のごとくの順延論が出てきて、これが『ヨハネの黙示録』に結実します。

 

 

なお、こちらは、もはやユダヤ教から離れ、キリスト教徒に向けられた、キリスト教徒を励ます黙示論とされます。

 

 

 

おまーら、今に見てろ。そのうちに、うちらの神様がなー

 

 

 

というのは、本来はユダヤ民族が、自分達を迫害してきた異民族に向けていたものであったはずですが、これがキリスト教徒のものともなりますと、これは「クリスティアノス ー キリスト(救世主)なんてものを信じている連中」(※ 揶揄的意味だった、とか)をバカにする、いっそ迫害する人々に向けられたものになってます。

 

 

つまるところ、キリスト教はパウロという、あえて言えば狂信者のほざいていたことを、それこそ「そうあったらいいな」と信じるところがあります。

 

そして、それは本来はユダヤ教の考え方であり、新約聖書学者である田川建三が『キリスト教思想への招待』(勁草書房)の中で書いておりますが、「イエスの頭越しに、イエス自身が抗(あらが)っていたユダヤ教の様々な要素をそのまま継承している」のがキリスト教なのだ、とか。

 

 

やっぱりキリスト教は「パウロ教」?

 

 

この点、「イエスに帰れ」と言っていたニーチェはすごいですねえ。

 

まあ、キリスト教なるものからすれば「異端」となるんでしょうが。