あやしいキリスト教 イエスが何を言おうが、しようが、どーでもいい、というパウロの主張とは | 日々の妄言、ざれ言、たわ言、世迷言

日々の妄言、ざれ言、たわ言、世迷言

思いつくことを適当に書き込んで行きます。まことしやかに書かれておりますが、何の根拠もありません。適当に読み流してください。

まず、クリスチャンの基本的信条(教義)である「使徒信条」を見てみましょう。

 

 

 

 

 

宗派によって表現の仕方には微妙な違いがありますが、内容ほぼ同じでしょう。

 

 

まず、唯一神、つまり、この世界を創造したという、たった一人の神を信じるということが大前提です。

 

ギリシア神話のゼウスとか、日本神話の天照大御神とか、転輪王命親神様 ー 天理教の神)なんてものは邪教(!)の神々であり、最悪は悪魔にされてしまいます。

 

 

続いて、イエスキリスト、つまり救世主(メシア)であり、神の子だとあります。

 

 

何度か書いておりますが「キリスト」は固有名詞ではありません。たまたま手元にあった広辞林(三省堂)には「キリスト教 ー キリストが説いた教え」なんてありましたが、正確には「イエスが説いた教え」でしょう。

 

 

当時のユダヤ社会には、この「救世主(ヘブライ語で「メシア」)と呼ばれた方は何人もおりました。あの洗礼者ヨハネもまた、そう呼ばれていたようです。言うなれば「メシア(キリスト)」とは尊称でしょう。

 

 

「神の子」とありますが、イエス自身がそのように自称していたわけでもなく、ただ、その死後に、彼を慕う人々が言い出したことです。これもまあ、尊称だったように思います。

 

 

しかし、これを、事実として信じなくてはいけません。

 

 

唯一神とか、神の子とか、これを黙って信じるというハードル(?)がありまして、まさに「つまづきの石」でして、これにつまづいているようではクリスチャンになれません。天国の門は開きません。(たぶん・・・)

 

 

 

あっしなんぞは、その第一関門でコケてます

 

 

 

処女マリアより生まれ」た、なんてのは、たわけたヨタ話などで無視しましょう。

 

 

その後、イエスの言行録ともいえる福音書には、いろいろと、「売られた喧嘩は買うよ」という血気盛んな、イエスの、なかなか楽しいエピソードが盛りだくさんで、中には思わずホロリとさせるような感動的な話もあるのですが、んなこたーすっとばして、いきなりイエスは十字架に付けられ、死んで、復活し、天に昇ったとあります。

 

 

 

で、クリスチャンになったら何を、どーしろというのか。

 

 

唯一神の存在を信じ、イエスがその子であることを信じれば、救われる?

 

じゃあ、その「救い」って何だい、と。

 

 

死んだら「天国に行ける」?

 

安心して死になさい?

 

 

 

 

 

「処女マリアから生まれた」なんて話は別として、この使徒信条の中核は、やはり「イエスが死んで、復活した」ことをもって、これを信じる者は救われる、ということでしょう。

 

 

死んだ人間が復活する?いやいや、神の子だから復活できたのだ。

しかし、それで、なんでこのことを信じれば救われるのか?

 

 

 

実は、この考えは、自称・使徒の一人であるパウロのものであります。

 

 

キリスト教の教祖は(実はイエスではなく)パウロ」なんて言われるようですが、そして新約聖書の内容の多くは、このパウロの手紙で占められているわけですが、そして「聖書の言葉は一字一句、全て神が書かせたもの」とするなら、イエスの言行録である福音書の内容もさることながら、むしろ、このパウロによってなされた主張こそがキリスト教の基本教義ということになるかもしれないです。

 

 

先回も書きましたが、「福音書」における「福音」はイエスの説いたことでしょう。

 

しかし、パウロが言うところの「福音」とは、死んだイエスが復活したことで、自分達が救われる、というもののようです。

 

 

 

なぜ、イエスの死、そして復活をもって、パウロ以下、言うなれば唯一神を信じ、イエスを神のこと信じる人々が救われるのか。天国(?)に行けるというのか。

 

 

ふつーに考えたら、わけがわかりません。

 

 

浄土信仰のように、むずかしいこたーいいから、とにかく南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏って、唱えていれば死んで極楽往生ができるんだよ、と同じように、いいんだよ、とにかく、神様と、主なるイエスが死んでも復活したってことを信じていれば、黙っていても天国に行けるんだよ、ということなのか。

 

 

 

このパウロという方、ユダヤ以外の地域に精力的に宣教して回ったことゆえに、今日のキリスト教の基礎ができたともされます。つまり、初期キリスト教発展の功労者なのであります。

 

 

で、宣教される方の人々からとってすれば、

 

 

 

なんだかよくわからんが、信じれば救われるって言うぞ

悪いようにはしないから、ただ、信じろって、か

どこかの新興宗教のように、やたらと献金や寄付を要求するわけでもないようだし

だったら、入信してみるか。害になるわけでもないだろうから

 

 

 

なーんてことではなかったのか。

 

 

ちなみに、この当時はまだ、イエスの言行を記した福音書なんてものはできておらず、ましてそんなものはずっと後になって公になったもので、それこそ15世紀のグーテンベルクの活版印刷技術の発明によって、ようやく、数多くの聖書が作られ、一般信徒の目に触れることになったのですが、それまでは写本しかなく、それはことごとく教会に占有されていたとされます。

 

 

つまり、キリスト教というのは、一握りの聖職者が、これまた一握りの聖書をもってして、自分達が勝手に(!?)解釈したものを神聖なる教義として一般信徒に説いていたわけです。

 

 

ゆえに、末端の教会の聖職者(神父)なんぞは、聖書なんてものは持たず、その上に字も読めず、ただ、上から教えられたことを説いていただけだった、とか。(※ その代わりに教会などには絵画が飾られておりました)

 

 

となれば、あまり賢くもない一般民衆(?)にとってすれば、パウロが宣教していた頃とさして変わらず、「なんだかよくわからんが、信じれば救われるらしい」ということで信者になっていたのではないのか、まして、ローマ帝国では国教にされてましたからねえ。

 

 

以下、次回以降は、パウロという方は、何をもってして、つまり何を根拠に、そのような救済思想なるものを説いていたのかを考えてみたいと思います。

 

まず、重要なことして押さえておくべきこととしては、パウロ自身がイエスが何を言ったか、何をしたかなんてことにはまったく関心がない、と公言していることでしょう。

 

 

この言葉をそのまま受け入れるなら、後に作られた福音書なんてものも意味がない、ということになります。

 

むかーし「クリープ(ミルク)を入れないコーヒーなんて(飲めるものか)」というCMがありましたが、イエスの言ったこと、為したことなんて、どーでもいい、というキリスト教になってしまう?

 

 

 

そんなのキリスト教なのか。

 

 

もし、新約聖書にパウロの手紙が入っていなかったら、キリスト教はもっと味気ないものになったはず」なんて研究者の言葉がありましたが、むしろ、イエスの言行録である福音書なんか入っていなかったら、これは味気ないどころか、それこそキリスト教というよりも「パウロ教」の経典になってしまったように思います。

 

 

あえて言えば、逆に、いっそ福音書だけで十分のはずです。そこで、イエスの主張(思想)が理解できるはずです。

 

 

 

しかし、要は、キリスト教というのは、それだけではないし、そういうものでもないと考えるべきでしょう。

 

広辞林にあった「キリスト(イエス)が説いた教え」というのは福音書のことです。

 

 

実際には、ユダヤ民族の宗教(※民族宗教。これがまた膨大な教義があります)を土台に、福音書においてイエスの主張を説き、さらには、パウロが自ら作り出したとも言うべき救済思想として構築された、もはやどこから手を付けていいのかわからないような巨大宗教というべきでしょう。

 

 

同じく、仏教もまた、その教祖たる釈迦の思想を土台に、多方面に枝を伸ばし、古代インドの宗教の神々を取り込み、さらには伝えられた中国で変容し、これが日本に伝わると、これまた日本古来の神道民間信仰と融合し、ついには釈迦その人が聞いたら驚くような葬式仏教なんてものが主流になってますからねえ。

 

 

いずれも、企業で言えばコングロマリット(異他業種複合・巨大企業)みたいなものです。

 

 

キリスト教でいえば、創業者とも言うべきイエスなんか棚の上に祭り上げられ、後から入ってきたパウロが、いつの間にか経営の首脳陣のような顔をして采配を振るっている、とでも言えばよいのか。

 

 

ゆえに、そこに監査(?)のメスを入れてみようか、と。

 

 

 

監査 = 陰湿ないじめ?

 

 

 

 

あっしが銀行にいた時は、これに何度となく泣かされていましいたからねえ。

 

監査とは名ばかりで、ありゃ陰湿な「いじめ」でした。

 

 

 

江戸の敵を長崎で討つ」なんて言葉がありますが、いっそ、その恨みの八つ当たりバージョン(?)のようなものですかねえ。