今日、1月11日は「鏡開き」であります。。
えっ、そんなもの知らない?
んな奴は、日本人とは言えません。非国民ですねえ。
一歩前へ出ろ。歯を食いしばれー
で、精神棒の鉄槌がくだるはずです。
さて、この鏡開きですが、元々は20日に行われていたおりましたが、江戸時代、徳川家光が亡くなった日が20日だということから商家が行っていた「蔵開き」と同じ11日に行うようになりました。
武家にあっては、正月に年神様に供えていた鏡餅を雑煮や汁粉にして主君、家来ともどもが食べる風習があり、商家でも同じように主人と家族、奉公人が一緒に食べました。なお、刃物で餅を切るのは切腹を連想させるため、手や木槌で割り、「切る」、「割る」という忌み言葉を避けて「開く」と言うようになったのだとか。
また、「鏡」は円満を、「開く」は末広がりという意味を持つとされました。
このように神様に供えたもの(供物)を人間が頂く、食すというのは、その神様の力をいただくことだともされます。
「歯固め」といい、固いものを食べて歯を丈夫にし長寿を願うという意味もあったとされます。
特にどうということもない、日本の伝統的な季節行事の一つですが、こういった行事、儀礼には必ずこのような神などに対する願いが込められております。正月の様々な儀礼や七五三、地鎮祭というもの、みなそうでしょう。
「そうあって欲しい」という期待、願望を超越的存在である神に対し求める、祈るのであります。
先回書きましたように、ただ、単に「そうあって欲しい」と思うこと自体は「宗教」ではないと思います。
しかし、このように、何かにつけ神に祈りを捧げるという我々日本人は無宗教どころか、意外にも信心深いといえます。
地鎮祭を例にとるなら、施主や工事関係者が、工事の無事を願うこと自体に意味はないはずです。
工事現場や工場で「安全第一」がスローガンとなっておりますが、それ自体はただの願望です。しかし、事務所に神棚、現場や工場の敷地内に祠(ほこら)などを建て、安全を神に祈るともなりますと、これはもはや宗教でしょう。
(※ 先回書きましたように日本の最高裁は、この地鎮祭を通俗的慣習としてしまってます)
まずもって、そのような願いを聞いてくれる神がいるのか、その神に、そのような力があるのか、これはわかりません。人間の思考を超えております。
イギリスのジェームス・フレイザーという人類学者は、その著である『金枝篇』で有名な方ですが、この方の「呪術」についての興味深い考え方があります。
彼は「呪術」は「疑似科学」だといいます。
呪術も科学も因果関係を解明するものだが、その因果法則に客観性があれば科学だが、ただの主観にすぎないものは呪術だとしております。
これに従えば、工事の安全を祈願すればそれが叶うはず、というのは何らの客観的根拠はないはずでして、安全祈願は主観的な呪術ということになるように思います。
さて、前回に引き続き、考古学的な宗教の原初形態ともいうものではないかとされるものの一つにフランスはラスコー、スペインはアルタミラと名付けられた地の洞窟の壁画があります。
約2万8000年~1万年前のものとされ、クロマニヨン人に描かれたものとされます。
奇妙なことに、これらの絵は洞窟の奥深くで見つかっておりました。つまり、彼らはわざわざ、そこまで行き、恐らくは火を灯しながらこれらの絵を描いたのでしょう。
一つの仮説として、これは洞窟を女性の子宮とみなし、そこに描かれた動物は、彼らが狩猟するもので、ゆえに、大地の神のような存在(?)に対し、そういった動物をたくさん生み出してくれる(豊饒性)ことを祈った儀礼の跡ではないか、というものがあります。
まあ、普通に考えて、当時の人々が、洞窟内美術館(?)を作り出し、拝観料なんかを取ってこれを見せていた、なんてことは考えにくいですしねえ。
狩りをする人間とすれば、獲物となる動物が多いにこしたことはありません。狩りをし続けていたら、そのうちに獲物となる動物がいなくなってしまった(絶滅!)では、自分達もまた生きてゆけなくなります。獲物となる動物が多産であることこそが望ましいのであります。
旧約聖書は『創世記』の一節に「産めよ、増えよ、地に満ちよ」という言葉がありますが、そしてこれは人間についてのものですが、人間にとって必要とされる動物もまたそうあって欲しいのであります。
まあ・・・、中にはあまり増えて、地に満ちて欲しい、とは思われないのもいますが。
ハエとかカ、そしてゴキブリなんかねえ。(※ しかし、これは人間中心の考え方です)
ゴキちゃん(ゴキブリ)にとってすれば、
おまーら人間の方が危険な生き物なんだよ。いっそ害獣なんだよ
核爆弾なんか使って、地球をぶち壊しかねないんだよ
なーんて言われるかもしれない。
さてさて、狩りについては、例えばアフリカの狩猟民に興味深い呪術(?)があります。
獲物となる動物の足跡を見つけると、そこに槍などを刺すのであります。
ふつーに考えりゃ(科学的)、だから何なんだい、ってものでしょう。
しかし、彼らによれば、こうすることで、この足跡を付けた動物の足には支障が生じ、そう遠くへは行けなくなるというのだそうです。それこそ疑似科学でしょう。そんなものに科学的な法則は見いだせないはずです。
あえていえば「そうあって欲しい」という期待、願望が、いつしか「必ずそうなる」という盲信(?)に変わってしまっているのではないのか。
して、これは、日本のそう古くはない頃(※ 昭和期か?)、奈良県は吉野で狩猟をしていたという古老の話です。
「マチウチ(※ 待撃ち?)」といい、この方の長い狩猟生活の知識と経験から生み出したという方法で、獲物となる猪(いのしし)の習性を知り、その逃げて行ったと推測される方向に先回りし、待ち伏せして撃つのだとか。
しかし、それでも外すこともあるはずだ。そのときはどうするのだと聞いた方が意地悪な質問をしたところ、この古老が言うには「その時は暦(こよみ)を見る。猪は暦でふさがっている方角に逃げるから、先回りしてもう一度マチウチする」のだと。
暦で「日塞がり(ひふさがり)」というのは、陰陽道で天一神(※ 八方を運行し、吉凶禍福を司るとされる神)のいる方角で、子・辰・申の日は北、丑・巳・酉の日は西などとされ、例えばその日が子の日であれば、必ず北に逃げるはずだから、その方角で猪が行きそうな場所に先回りするのだそうです。
この古老の猟師は、その長い猟の経験から、経験知ともいうべき、それはそれで科学的な知識(※ 猪の習性など)を持っていると考えられますが、しかし、そういうものが通用しないともなりますと、あえて言えば非科学的(疑似科学)な見識に頼っております。
むろん、この古老は、その信じているこの陰陽道の暦の見方、考え方を真理としているのでしょう。
しかし、どう考えても「そうあって欲しい」という願望、期待を強引に(?)意味づけて、「必ずそうなる」と盲信しているような気がします。
だいたい猪が陰陽道なんてものを知っているのか?
いや、たとえ猪が知らないとしても、猪もまた陰陽道の法則に従って生きているのか。
陰陽道とはつまるところ占術、つまり占いだとされますが、この占い天文学や統計学などの科学的な根拠があると主張する立場もありますが、一般的には非科学的なものとされております。
何度か書いておりますが、「そうあって欲しい」という期待・願望を、何らの科学的な根拠もなしに「そうある」と盲信してしまう。このような認識の境界線(?)踏み越えてしまうと、宗教になるのではないかと思います。
して、これまた何度か書いておりますが、極楽や天国なるものも、本来は「そういうものがあったらいいな」ということが、いつしか「そういうものがある」という盲信になってしまっているのではないかと。
まあ、そう思い込んで、少なくとも死の直前まではそう思い込んでいるなら、それはそれで幸せなことだと思いますが。
その先のことは・・・。
誰にもわからないように思います。
「話が違うじゃねーか」なんてことだって、ある?
そうなっても、なんせ「死人に口なし」ですから、文句も言えないはずです。