広辞苑にあります「宗教」なるものの、説明を再度あげてみますと、
神または何らかの超越的絶対者、あるいは神聖なるものに関する信仰、行事
とありまして、まず「何らかの超越的絶対者」なるものから考えてみましょう。
太平洋の島、例えばメラネシアには「マナ」という超神秘的な力が存在すると考えられております。これが人間の生活の吉凶禍福に影響を与えるとされ、槍に付けば、その持つ人に勝利を、漁網に付けば大漁が約束され、病人や衰弱者に付けば回復をもたらすとされます。
しかし、逆に言えば危険なもので、おろそかに扱うと災いをもたらすともされます。
して、それに何か人格のようなものがあるわけではなく、意思を持ったものというわけでもないようです。
中国の古代思想、特に老子や荘子の説いたものに「道(タオ)」というものがあります。宇宙の普遍法則、自然摂理ともされます。
太極図
「陰、極まりて陽になり、陽、極まりて陰になる」、つまり、いずれも反転してゆくものとされますし、「万物は無から生じ、再び無に帰す」なんてこともいわれます。
人間もまた、何もない所から生まれ、死ねばまた、そのあった所に帰って行く。
その間に存在したのは、一つの「形」つまり「仮象」にすぎない。仏教ではこれを縁によって構築されるも、それがほどければ、その形はなくなるなんて言われます。
して、その宇宙の普遍法則、自然摂理なるものは、その法則、摂理に則り、自(おの)ずから、そうなってゆくと考えられます。
さて、こういったマナ、そして道(タオ)なるものを統括し、運用するという存在を想定し、これを「神」とすることもできます。
人間が、生きてゆく中にあって自然界の様々な事象、現象をして、そこに、このような神を想定することもありますが、それぞれの領域、分野、役割があるとし、いくつもの神々が在るとしたときには多神教というものになります。
古代ギリシア、古代ローマ、そして日本の神道など、実際はこういう多神教こそが主流のものとされます。
これが一神教ともなりますと、唯一の絶対的な存在を想定しておりまして、それ以外の神を認めません。それらは邪神であり、最悪は神に対立する悪魔にしてしまいます。
モレク神(後に悪魔)もともとは、カナン地域の豊穣の神
キリスト教というよりも、その前身であるユダヤ教は、異教の神々をことごとくこの悪魔にしてしまいました。ゆえに、悪魔にはいくつもの種類があるとされます。
このような考え方は、戦時中、日本がアメリカやイギリスを称して「鬼畜・米英」と言っていたことに似ています。
さて、「道(タオ)」において説明される宇宙の普遍法則、自然摂理という物自体、これは科学的なものであり宗教とは言えないように思います。
そもそも、それを統括、運用するという神なんてものを想定しなくとも、それらは、それこそ、それ自体の論理、法則に従っているように思います。
朝になれば日が昇り、夕になれば日が沈むというのは、神がそうしているわけではなく、天体法則に基づくものでしょう。
生命の誕生、そして死もまた、生命といものの在り様、というか一定法則に従ったものでしょう。
しかし、例えば古代ユダヤ民族は、そういった法則、摂理ではなく、それらをもを運用する絶対的な存在としての神を想定し、そして極めて禁欲的に、かつ厳格に自分達の神を真摯に、誠実に崇めておりましたが、次から次へと災いが降りかかってきます。
エジプトやバビロニアに捕囚されたり、国そのものを滅ぼされたり、挙句の果てには大国ローマ帝国の支配をうけたりと、もうさんざんな目に遭う。
これが多神教なら「捨てる神あれば拾う神あり」ではないですが、別のもっと強力そうな神に鞍替えしよう、なんてことにもなるんでしょうが、一神教ですと、これはもう、その唯一の神にすがるしかない。
すがっても、そういう災いに巻き込まれるとすれば、これはきっと自分達に至らぬところがあり、それによって神が罰を下したのだと、彼らは考えます。
さて、心理学では何かあたっとき、その理由、責任を「誰か、何か」のせいにするタイプ「他罰的」といい、「自分のせい」とするタイプを「自罰的」といいます。
例えば話、
ねずみ男さん、今、あたしのお尻に触ったでしょ。セクハラよ
いや、あの・・・、あっしじゃなくて、あっしの手が勝手に・・・
イエスなら「そんなことするような手は切ってしまえ!」なんて言うでしょうねえ。
話を戻しまして、古代ユダヤ民族は、この自罰的性格であったようで、このように考えたのでしょう。
そして、それは旧約聖書の『ヨブ記』に、思想的に結実しております。
とにかくもう、黙ってひたすら自分達の神を信じすがるしかない
のだと。して、これはこれで、なかなか高尚な、いっそ居直り的ともいうべき態度でしょう。
神に対し、何ら恥じることはない、と。
崇高ともいうべき考え方です。もし、神が本当にいるなら放っておかないように思います。
まあ、それを期待してのこと、とも考えられますが、そこまで言ったら意地悪になります。
さて、世界の神話を見ますに、人間を含めた生き物は神によって創造されたというものが多いです。
ちなみに、日本神話ですと天皇や一部の貴族はともかく、一般民衆は草か苔のように、もっと言えばボーフラのように(?)沸いてきた、というか自然発生したということになっております。
日本の民間信仰ですと、例えば産土神のもとから魂をもらい、命を宿すも、死ねば再び、元々在った場所(※ 例えば山)に帰る、なんてものもあります。
して、このように何らかの超越的絶対者に人格があるものとした時、これは「神」となり、その神は、人間のその神に対する対応(態度)次第で、それこそ吉凶禍福をもたらすというものになるのでしょう。
そして、もし、神にこのような人格があり、意思があるとするなら、なんとか、その神の意思を知りたい、できることなら、人間の願い、期待に応えて欲しいと考えるのは当然でしょう。
豊穣(豊作)、大漁、降雨、安全、勝利、その他、まずはその共同体全体の利益は神に祈られたと思います。
個々人の健康長寿や安産、子育て、さらには家内安全、商売繁盛なんてものが少なくとも公に祈られるようになるのはずっと後になってからのことだと思います。
また、もし、自然災害(地震、日照り、洪水など)があれば、これは神の怒りであり、人間の側に何か神の機嫌を損ねるものがあったのだと考えたのでしょう。
こうなればひたすら恭順の意を示し、供物をささげるなどして、その怒りを納めてもらうしかないと考えたのだと思います。
これは、いわゆる「因果応報」の考え方でしょう。
しかし、ひたすら恭順の意を示し、供物を捧げ、神を崇めていたのに、なぜか神の怒りを買ってしまうこともあるのであります。
それまで、ずっと、そのような対処をしていたのに、突然、天災に見舞われるなんて場合ですねえ。
なんせ、神の考えていることなど人間が知ることはできませんが、それでも、やはり何か原因があるのだろう、と。
そう言えば、お前、土用丑の日でもないのにうなぎ食ったろ
お前こそ、精進潔斎してなきゃいけない祭りの前に女房とむつまじくやってたっていうじゃないか
いやいや、確か、ねずみ男が酔っぱらって神社の鳥居に立小便してたっていうぞ
などと、あら捜しというか、強引に何らかの理由付けを行う。
それで、例えばの話、ねずみ男を人身御供なんかにして、神様に誠意(?)を見せるわけですねえ
まあ、気休めかもしれませんが、何もしないよりはまだいい、と。
たまたま、いっそ偶然に、そういう災いが収まれば、これは自分達の思いが神に通じたのだと考える。
その点、我々日本人は、先回書きましたように、晴れなかったら、てるてる坊主は斬首なんてこともしますし、もし、祈りが通じないと思ったら、多神教ですから、さっさと別の、もっと強力と思われる神(又は仏)にすがるでしょう。
そもそも、仏は外来の、もしかしたら日本の既存の神々よりも強力な神と考えられていたようですし。
さてさて、神と人間の関係ですが、一神教の神は基本的に崇高なる存在で、それこそ近寄りがたい雲の、ずっと上の存在ですが、それでもキリスト教の前身のユダヤ教にあっては、もっとずっと身近な存在であったように思われます。
まず、人類創生の段階では、その原初の人間であるアダムとイブと会話をしております。
アブラハムというユダヤ民族の伝説的な祖先とされる方にも直接、声を掛けております。
その後は預言者とされる、神が選んだ方にそのメッセージを託しております。
そして、もっと時代が下がると、自身ではなく天使にメッセージを託しております。この段階では、もう、神が直接人間と話をするということはないようです。(神様が偉くなってしまったのか、それとも単に怠慢なだけなのか)
イエスなんか、その死の間際に神に悲痛に問いかけてますが、まったくシカト(無視)されてます。冷たい方です。
これに対し、日本の神様というのは、もっとずっと身近な存在のようでして実体として顕現することもあれば、夢の中に出て来るなんてこともあるようです。
また、新興宗教の教祖様などは、その独自の神様の声を聞いたとされます。
なぜ、それが神様なのか、それをどうやって客観的に証明するのか、なんてツッコミは完全に無視されます。
精神医学的にはパラノイア(偏執症・妄想性パーソナリティ障害)の幻聴ではないかともされますが、自分からそうだ、なんて言う教祖様はいないでしょう。
まして、そんな病人(?)ではないかなんてことにしたら、不敬な輩として、その神様の天誅がくだるかもしれません。
一般的には、そう言った神様がいる、在るものとして、そう想定して、それらしく対応しているようです。
今は災害に見舞われた石川県は能登半島の村々には毎年11月5日に行う「アエノコト」という収穫祭がありまして、それを例として挙げてみましょう。
重要無形文化財・ユネスコ無形遺産にも登録されました
その日は家長である主人が、田に行き、田の神を家に迎え、まず風呂を勧め、続いて座敷にて食膳を捧げます。この時、あたかもその神様が目の前にいるようにふるまいます。また、神様は目がみえないものとし、椀のふたを取り、食べ物を一つ一つ説明します。もちろん酒も勧めます。
そして十分にもてなした後は、田の神は山に帰って行き、山の神となります。
この山の神は、春になると再び里に下りて来て、田の神となり豊作をもたらしてくれると考えられていたようです。
あえていえば、神(ここでは、田の神、山の神)なんてものが本当にいる、在るのかはわかりません。
しかし、いるもの、在るものと想定し、それに対し誠実で謙虚な姿勢、態度を取り、それを敬い、感謝を捧げるということは、思うに自然(世界)にたいする人間の対応の仕方の表明なのではないかと思います。
その自然に、何か超越的な力を見て、それに恭順であろうとするのでしょう。
少なくとも、自然を自由に、どうにでもできる、などと思い上がった気持ちはないはずです。
別に、神なんてものを想定せず、その自然なら自然を畏怖し敬えばいいではないか、とも思います。
しかし、やはり、何らかの人格的な存在の方が、人間の願いを聞いてくれるかもしれないということから神が創造(!?)されたのかもしれませんねえ。
「神は、人間が必要なものとして作り出したもの」なんて言っていた方がいましたが、これなんか従来の宗教観を根底から覆すものとなります。