あやしい宗教学 宗教とはそもそも何なのかという問題 ① どうして、どのように宗教が生まれたのか? | 日々の妄言、ざれ言、たわ言、世迷言

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思いつくことを適当に書き込んで行きます。まことしやかに書かれておりますが、何の根拠もありません。適当に読み流してください。

宗教といっても、実はよくわからん、いっそわけのわからんものなのであります。

 

 

何しろ「宗教」なるものの定義からして宗教学者の数だけある、なんてことも言われております。また、何をもってして宗教なのかという問題もあります。

 

 

多額の寄付やお布施を要求するような、いっそ宗教の名を冠した経済詐欺(?)ではないか、などと言われる宗教団体もありますし、宗教法人ではありながら崇教真光世界真光文明教団などは「自分の所は宗教ではない」としておりますし、その主張は宗教的でありながら、実践倫理宏正会倫理研究所なる団体は一般社団法人として登録されております。

 

 

 

 

崇教真光の施設

 

 

 

神道も、明治から終戦(敗戦)までは、政府によって宗教ではないとされておりましたし、教祖も教義もなく、勧誘もしないということで現在でも宗教ではないと主張している神職者(神主)もおります。

 

しかし、神道の統括組織である神社本庁は、「本庁」などと、あたかも公的なもののようにも思われますが、実際には一つの宗教法人であります。(※ 当初は国の機関だったものが、戦後、宗教法人になった)

 

 

つまるところ、「宗教」の定義において、教祖の存在や教義があることを必須条件とするなら神道は宗教ではないということになりますが、先にも書きましたように、その定義は曖昧で、なおかつ多様で、学術的にも統一的な見解が定まっていない以上、微妙なところでしょう。

 

 

ただ、例えば広辞苑に示されるものですと、

 

 

神または何らかの超越的絶対者、あるいは神聖なるものに関する信仰、行事

 

 

とされまして、これがまあ、少なくとも最低限の基本的定義と考えるなら、少なくとも「」を想定している神道は宗教だと思います。

 

 

とはいえ、例えば津地鎮祭訴訟なるものがありまして、地鎮祭は宗教儀礼か否かが争われ最高裁は、これを「世俗的な一般慣習」と規定し、つまりこれは宗教に該当するものではないという判断を下しております。(※ ただし何人かの反対意見あり)

 

 

 

 

地鎮祭は一般慣習?

 

 

 

これまた微妙なところで、その土地の守護神(産土神)を想定し、神式の儀礼を行っているのに、これを伝統的な通俗慣習と言ってしまっていいのか。

 

 

また、我々は初詣に始まり、初宮参り七五三、さらには厄払いなどで社寺に行きますが、さりとてその誰しもが仏教や神道の信者という自覚を持っているわけではないでしょう。

 

さらには、日本には季節ごとに様々な伝統的な行事、儀礼、祭礼などがありますが、それを行ったり参加する方がみな、それらを宗教的なものと認識しているものなのか。

 

 

極めつけはクリスマスでして、まずもってクリスチャンでもないはずの多数の、というかほとんどの日本人が毛唐の邪教(?)の教祖誕生祭に浮かれまくっているのは異様とも思われます。

 

 

ついでに言えば、葬儀も日本では仏式で行うのが主流だと思いますが、そして今でも特定寺院の檀家となっている家も多いと思いますが、そこに関わる方々がみな仏教徒という自覚を持っているとは考えにくいです。

 

まして、生きている時は無宗教を自認していたのに、亡くなったら戒名を付けられ、いきなり仏教徒(仏弟子)になるというのもねえ。

 

 

 

 

おまーら、宗教というものをナメとんのか

 

 

 

なーんて声がどこからともなく聞こえてきそうな気もします。

 

 

 

ちなみに、「宗教」という言葉は明治時代に作り出された言葉でして、それまでは例えば「宗学」などといわれておりまして、仏教的な意味合いのものでしたが、キリスト教が入ってきたがゆえに、それらを含めた一般的な言葉として新しく作られたのだとされます。

 

こういった経緯もあり、その定義の曖昧さもあって、今でもあえて言えば捉えどころのない厄介な概念と言えるでしょう。

 

 

して、今回は人類の初期、それこそ考古学的な視点から今日でいう宗教的な考え方の萌芽ともいうべきものを探ってみたいと思います。

 

まず、現生人類の親戚(※ 現生人類と同化してしまったという説もあります)であるネアンデルタール人にもみられる埋葬方法であります。

 

まず、この埋葬からして他の動物には見られない人類固有の文化でしょう。

 

さて、埋葬の方法ですが、一つは「伸葬」といい、遺骸をまっすぐにあお向けに横たわせたもので頭を太陽が昇る東側に向けるものがあったとされます。もう一つは「屈葬」といい、これは身体を丸めた姿勢、つまり胎児の姿にさせたものです。

 

 

 

屈葬

 

 

ここで押さえておくべきは、死者に対し哀悼の気持ちを示すからこそ、それこそ「野ざらし」という言葉にあるように、ただ遺棄するというのではなく埋葬したということ自体には宗教的な要素はないと考えられます。

 

 

しかし、頭を東に向けるというのは、太陽が再び昇る如く、そして、あえて胎児の姿勢にしたというのも、復活再生、つまり生まれ変わって欲しいという願望から行われたのではないかと推測することもできます。

 

 

むろん、たまたま、そうしただけで、そこに深い意味はなかったのかもしれませんが。

 

 

もし、推測の通りだとするなら、そこには少なくとも当時の人々の人智を超えた、何か超神秘的、超越的な力、摂理が働いてくれることの期待、希望をいだいていたのかもしれません。

 

 

その、まさに力や摂理があるのではないかと想像すること、これこそが宗教なるものの萌芽ではないのか。

 

 

 

 

これが現代ですと、例えば我々は墓参りに行きますが、これまた、そもそも死者に対し哀悼の気持ちを表すというものでしょう。

これ自体にも、そこに宗教的な要素はないように思います。

 

しかし、亡くなった方の天国(極楽)にったのだ、あるいは祖先神・ご先祖様になった、と考える場合は宗教となるように思います。

 

」、「あの世」、「祖先神」というのは、少なくとも抽象的、あえて言えば非科学的な概念で、在るとも無いともいえないものでしょう。(※ 在ると言い切る立場、人もありますし、いますが)

 

 

また、「きちんと丁寧に供養しないと、死者の祟りがある」と考えるのも宗教になるのではないのか。

 

そもそも、実際にそうなのか否か、なんて誰にもわかりません。

 

 

個人的なことを言えば、そんなことで祟りを為すなんてご先祖様はロクな者ではないように思います。いっそ悪霊、邪霊でしょう。

 

民俗学者の柳田国男は、御先祖様というのは、その昇っていった山から、子孫を黙って温かく見守ってくれている、言うなれば守護神のようなものとしておりますが、そしてそれは、つまるところ生きている我々自身の「そうあって欲しい」という期待と願望の投影のような気もしますが、確かにそうあって欲しいですよねえ。

 

 

今年は、誰も墓参りに来なかった」なんて怒って、例えば、その子孫の頭の上に鳩の糞なんか落とす、とか。

 

大人げないというか、人間ができていないというか・・・。

 

 

まあ、死んだ方ですけどねえ。仏弟子になったというのなら解脱(悟りを開く)して、もっと泰然自若でいると思うんですがねえ。

 

 

続きまして、ヴィレンドルフのヴィーナスと呼ばれる豊饒の女神とされたものではなかったかとされる像であります。

そのデフォルメ(誇張)した妊婦と思しき女性像(女神)は、まさに多産と豊饒を思わせるものでしょう。

 

 

 

 

 

多産、豊饒を願うこと自体は宗教ではないと思います。

 

 

しかし、このような像を作り、それを女神というシンボリックなイメージとして具現化し、その持つ神秘的、超越的な力を期待し、その像に祈りを捧げるとしたら、これは宗教ではないかと思います。

 

 

現代にあっては、例えば明日が運動会や遠足だといった場合、てるてる坊主を作ってこれに祈りを捧げるという風習があります。(※ 今は、あまりやらないとは思いますが)

 

 

 

もし、晴れなかったら打ち首、ギロチンが待ってます

 

 

 

同じく「明日、晴れて欲しい」と願うこと自体は宗教ではないと思います。しかし、このような人形を作り、それに超神秘的な力を期待する(まじない・儀礼)というのは宗教になるように思います。

 

 

なお、これを題した童謡では、その願いが叶えば「甘いお酒をたんと飲ます」と喜ばせておりますが、もしそうでなかったら「首をちょん切る」なんて脅迫してます。

 

 

まさに「アメとムチ」でありまして、もし、テルテル坊主が、そんな超神秘的な力を有するという、いっそ神にも近い存在だとするなら、そこには人間の、何とも不遜にして傲慢な態度を感じますねえ。

 

 

そんな不敬罪にもなりそうなことを言う人間に対して、

 

 

 

ほんというと、明日は晴れ、なんだが・・・

いっそ、大雨を降らしたろか、おー?

 

 

 

なーんて、てるてる坊主神(?)の怒りが爆発するのではないのか。