成人式をやや難しく言いますと「成人儀礼」といい、人生に幾つかある「通過儀礼(イニシェーション)」の一つとされます。
日本では一般的には、まず誕生祝いがあり、次に生後100日(※ 120日もある)に「食い始め(くいぞめ)」が行われ、1歳には餅を背負わせて、一生食うに困らないようになってほしいと願う風習もありますが、さらに三歳、五歳、七歳を祝う「七五三」があります。
かつては乳幼児死亡率が高く「七歳までは神のうち」なんて言われておりました。つまり、そこまで育たなければ、それはその子の持って生まれた宿命だから諦めるしかないとされていたのであります。
いまでこそ、無事に育つ子がほとんどですが、昔はこの七五三は、神様(氏神)に、ここまで成長させてもらえたこと、そしてこれからの無事をも祈るというものでした。
今では、子供に晴れ着を着せて、そのファッションショーを親や親族が楽しむ(?)という通俗的なものになってしまってます。そこに神様に対する真摯な感謝の気持ちはあるんでしょうか。
我々はただ「生きている」のではなく、神様や自然世界の中でなんとか「生かしてもらっている」と考えるべきではないのか。
そこんところはどーなんだ、と。
さて、そんな子供がいよいよ一人前の「大人(おとな)」になる大きな関門、通過儀礼こそが成人式(成人儀礼)であります。
現在では法律上は、満20歳をもって成人となり、酒やタバコが許され、選挙権ももらえますが、同時に何か犯罪を犯せば少年法ではなく刑法で処罰されることになります。
よく「何かを得ると、別の何かを失う」なんて言いますが、大人になるってことは、いろんなことが自由にできるようになると同時に、そのことに責任がかかってくるということなのです。
こういう自覚も持たず、少し前までの、派手な衣装に身を固め、酒飲んでタバコをふかして大騒ぎするなんていう連中はアホウとしか言いようがないのであります。
むしろその責任の重さに怯え、いっそ「大人になんかなりたくない」なんて思いを抱く方が多いのかもしれない。
して、かつて、こういう「大人になりたくない」とい方を称して、アメリカの心理学者ダン・カイリーが「ピーターパン・シンドローム(症候群)」としました。
ピーターパンは永遠に子供のままですからねえ。成熟拒否というか、その年齢に達しているのに精神的に未熟なままなのであります。ゆえに、「こどもっぽい」、「ガキ」なんて否定的なことも言われたりもします。
よい意味では「心はずっと少年のまま」なんて、例えばいい歳になっても昆虫採集に飛び回っているとかなんてのなら、お好きにどうぞ、なんですが、いい歳こいたオッサンが何かあるとすぐにすねるとか、責任回避するとかだとねえ。
マザコン男なんてのもいますし。
ドラマ『ずっとあなたが好きだった』
高学歴高収入のイケメンのお坊ちゃまと、上手いこと結ばれたものの、この男、なにかあると「ママに言いつけてやる」なんてのだったらどーしましょう。
これが女性ですと、深窓のお嬢様育ちで、親の言うなりのまま結婚するも、「男の人が突然、けだものになった!」なんてその両親に泣きついてきた、なんて話もあります。
相手の男は、ごくノーマルな方であったようですが、そもそもこの女性、それこそ無菌の温室で育てられたが故か男女のことをなーんも知らなかった(!?)らしいです。
いるんですよ、世の中にはこういう方も。
さて、日本の昔の成人式なるものは、例えば武士や、貴族ですと13~15歳で「元服」といい、髪形や衣服を変えたりもしました。
一般庶民ですと、これはもう地域によってバラバラで13~20歳であったとされます。それも一定年齢になったというだけではなく、一定の課題を達成して初めて晴れて「大人」の仲間入りができる、ということもあったようです。
海外ですとバヌアツ共和国のバンジージャンプが、そのようなものであるようですし、アフリカの狩猟民では一定年齢に達した男は一人で狩りに出かけ、獲物を捕ってこないと大人として認められないなんてされます。
日本ですと、例えば東北の山間部などでは、霊峰と呼ばれる山に登ってこそ一人前とされたようです。
農作業や、祭礼の行事でその役割をきちんと果たしてこそ、なんてこともあったとされます。
女性の場合は、初潮が始まる頃(※ 13歳前後)をして成人式ならぬ「成女式」が行われました。これを「腰巻祝い」などと言い、これを機に、腰巻を身につけたとされます。
男性の場合は褌(ふんどし)で、これまた「ふんどし祝い」なんていうこともあったようです。
お好きな方にはたまらない?
ついでながら、女性はともかく野郎の方が、とかく雑(!)で幼稚ですから、将来のためにも性教育を行うということもあったようです。
して、一例をご紹介しますと・・・。(18差未満・禁)
後家さん、つまり未亡人ですねえ。この方が指導役として、若いあんちゃんといっしょにお堂などにゆき、そこにある仏像なんかに祈りを捧げます。神聖なる儀礼という意味なのであります。
その後、この後家さんの指導のもと、女とはどういうものか、どう扱ったらよいのかの実地的なレクチャーを受けます。
一通りのことが終わりますと、二人で再び仏像に祈りを捧げます。
その後は、このことを誰にも一切口外しない、二人の関係もなかったことにするという約束をさせられます。
フランス映画の『個人教授』を思い出させますねえ。
なお、俗に「筆おろし」なんていいますねえ。(大人の)男になる、というのも大変なのであります。
ちなみに、シモーヌ・ド・ボーヴォワールは、その著である『第二の性』の冒頭で「女は女に生まれない。女になるのだ」なんて言ってますが、まあ、その通りだと、あっしは思ってます。
言わずもがなですが、女性は初潮をもってして一人前の(大人の)女性として認められるのでありますが、さらに第二の関門(?)として、事実上の(?)女になるのではないか、と。
とある小説を呼んでおりましたら、男女がてんぱった(?)シチュエーションで、女の方が男に、
あたしを女にして
なんていうのがありましたからねえ。
こういう場合、男はその希望という願望を叶えてあげなくてはいけません。
「据え膳食わぬは男の恥」なのであります。
とは言え・・・。
ねずみ男さん、あたしを女にして
な
ーんて場合ですと、
あっ、いけね。急用を思い出した
わ、悪いけど、また今度ね(※ 今度なんかねーよ)
して、それまで、やくざ映画なんかで、下っ端のチンピラがチャカ(拳銃)とかドス(短刀)なんかを渡されて、敵対する組の親分のタマ(命)をとって(殺す)来い、なんて言われて、さらに、
男になれや
なんていうことは知ってましたが、「女になる」というのもあるのだと思った次第であります。
しかし、大丈夫かな。こんなこと書いていて検閲に引っかかるとか。
実は、以前、有名ファッション雑誌『ヴォーグ』にも、何枚も写真を載せているヘルムート・ニュートンという写真家の、この雑誌にも掲載された、数人の同じモデルが片や最新のファッションで、片や全く同じポーズで、なんとオールヌード(!)という一躍センセーショナルな話題となった有名な写真を、「ヌードもまた、一つのファッションである」というそのコンセプトといっしょに載せたところ、いつのまにか記事ごと削除されてましたからねえ。
『ヴォーグ』に載った写真
ちなみに、このニュートンの撮る女性のヌードは、いうなれば芸術的なもので、例えばマン・レイのものと同じく、卑猥さはほとんど感じないものだと思ったんですがダメだったようです。