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バイカルアザラシのnicoチャンネル

 サイコロジストの日常と非日常を季節の移ろいを交えて描いています。バイカルアザラシのnicoちゃんの独り言です。聞き流してください。

 ここは和歌山県那智勝浦町。遠洋マグロ漁業の基地です。また、近海マグロの産地としても有名です。ここにホテル浦島という巨大な温泉施設があります。六階の部屋から見える勝浦湾の風景です。海中から湧き出す源泉は硫黄臭を伴い混濁しています。玄武洞では炭酸泉が音を立てて湧き出ています。湯船に入ると体全体に温泉が染み渡ってきます。

 

 夕方は黄昏色に湾が染まり、赤く焼けてやがて闇になります。夜は勝浦の夜景の上にオリオン座がまたたきます。

 

 そして、翌朝。近海マグロを載せた漁船が帰ってきます。

 

 朝、狼煙山に登ると山成島が見えます。平家物語で平維盛が登場します。屋島の戦いで敗れた維盛は高野山で出家して熊野三山を拝し、ここに逃れます。多くの家臣を失い追っ手は迫っています。維盛は松の木を削り、辞世の句を詠みます。

 

 故郷に いかに松風恨むらん 沈む我が身の 行く知らずば 

 

 勝浦には補陀洛山寺があります。南には観音浄土があり、永遠に観音様とともに住まう楽園があると言います。ここから多くの僧が補陀落渡海を行いました。維盛もそれに習いました。

 

 この光景を見ると時間と空間を超えて、戦乱の世がいかに壮絶なものなのかを思います。苦しみが多ければ、観音浄土への憧憬はより激しいものだったことでしょう。 

 

 一晩中照らし続けていた月は妙高山の山の端に姿を消していきます。その右には那智の大滝が流れているのが分かります。落差133mの大滝がご神体でここから観音菩薩がお出ましになったと伝えられています。インドの僧裸形上人がそのお姿を彫り青岸渡寺が建立されました。

 

 熊野三山から私たちは三重県を北上しました。七里美浜からは速玉大社を祭る新宮が見えています。熊野詣でもここまで来るともうゴール間近。ところがここは大変危険な海浜です。一見遠浅に見えるのですが、急激に深くなっており、寄せ来る波が海底に潜るので、ここで足を取られようものなら、体は海深くに引き寄せられて二度と浮かび上がることはありません。

 

 黒潮躍る熊野灘。寄せ来る波は小石を研磨し、どれ一つ滑らかで丸みを帯びています。しみ出した海水は日光に照らされて塩の結晶になります。自然の営みです。

 

 振り向けば、花窟神社が見えます。ここは熊野カルデラの噴火でできた地形です。地球最大規模の巨大噴火です。古事記は伝えています。伊邪那美命が火の神をお産みになり、女神は黄泉の国に下りました。夫の伊弉諾尊が妻を求めて読みに行きます。そうすると伊弉冉の体はウジでむしばまれ、伊弉諾は這々の体でこの世に帰りました。彼は妻のためにここに墓を建てます。人類最初の墓です。

 

 ご神体の窟に張られた七本の綱。年に二度掛け替えられます。女神と人をつなぐ綱です。今日は海風に吹かれてひらひらとなびいています。

 

 夏、窟には小さな花が咲きます。ハマユウの花。小さく見えますが、本体は1m程あります。どうして垂直の壁にハマユウが根付いたのか。奇跡と言うしかありません。それは女神に捧げられた花なのでしょう。境内は至って静か。クロアゲハが数匹飛び交っています。伊邪那美命の美しさを象徴するかのごとく舞っています。秋、台風が紀伊半島を襲うと20m程の波頭が吹き寄せます。窟にとどろく怒濤は体を揺さぶるほどです。今は冬。何もありません。青空に忙しく白い雲が走って行きます。

 

 この窟を見上げているとここは、この世の世界とあの世の世界の境界なのだと・・・。黄泉の国と現世の境目。それを一本の御綱が結んでいるのです。「よく死ぬことは、よく生きること」なのでしょう。死を感じれば、死を疑似体験すれば、現世でどう生きればいいのか。どう過ごせばいいのか少し分かるような気がします。自分の場合は、淡々と。ただ過ごすだけ。背伸びせず、萎縮せず。自分らしく。ここで感じることは人それぞれでしょう。熊野はそんな誰でも受け入れてくれるそんな世界が広がっているような気がしました。

 

 

 夕日が小高い丘を照らしています。西日はますます稜線に近づき夕日は弱々しくなっていくのが分かります。

 

 真っ赤に照らされたメタセコイアの紅葉。ますます赤く染まります。強い西風は灰色の雲を東の空に吹き散らし、空模様が忙しくなってきました。

 

 小高い丘の山頂からは櫛田川の河岸段丘にちりばめられた家々が見えます。中世、ここは五箇氏の居城でした。丘は笹に覆われ難攻不落の山城です。ここを織田氏の軍勢が攻めました。深い笹は足軽を寄せ付けません。軍勢は笹が枯れるのを待ちました。そして、火を放ちます。枯れた笹に覆われた篠山城はあっという間に焼け落ちました。

 

 それ以来笹は生えなくなりました。今は枯れススキが山頂を覆います。敵軍に辱めを受けるなら、井戸に身を投げて名誉を守る。五箇氏のお姫様は井戸に入水します。

 

 もう西日は稜線に入り、山の端だけが残照で覆われました。山頂の桜の木のシルエットが悲しげです。西風に吹かれて裸になった小枝を木枯らしが吹き抜けています。今はじっと寒さに耐えて、春に桜色になろうと全身を震わせています。風が吹く音以外は聞こえない中で、桜の幹の中では桜色をした樹液が樹全体を駆け巡っていることでしょう。春のなれば、多くの人が五箇篠山城を訪れます。今は、冬。すべては静謐の中で春を待っています。

 

 

 今日は、小春日和とまでは言えませんが風も凪いで快晴の空が広がっています。ここは深野の棚田。日本の棚田百選に指定されています。伊勢三山の中央にそびえる白猪山。標高820mの花崗岩でできたこの山は、江戸時代の初期宝暦三年に大崩落を起こしました。一ヶ月にわたり集中豪雨となり、辺り一面は海になったと記録しています。

 

 山頂は崩落花崗岩でできており、大雨が岩に染み入り、打ち砕かれた花崗岩の大岩が集落を襲いました。被災した人々は、この花崗岩で石垣を築き、田圃を再建しました。被災後の稲の収穫量は1.5倍になりました。上郷に住む人々はこのようにして災いを幸いに変えてきました。


 ここは松阪牛の故郷です。今年の共進会では特選一席が3032万円の値がつきました。松阪肉は品質が絶品なのですが、高価です。それでも地元では好き焼き肉が100グラム600円程度で売られています。

 大阪の玉造稲荷神社から伊勢神宮に通じる街道があります。江戸時代にお伊勢参りに使われた伊勢本街道です。今でも大晦日になると奈良から歩いて伊勢神宮の向かう人たちがいます。泊まりながらの旅で、徒歩で内宮まで着いたときの感動はひとしおでしょう。

 

 奈良県境から三重に入ると仁柿を通る街道に毎年、わらアートができます。新型コロナウイルスが流行したときにはアマビエが登場しました。今年は鳳凰です。空を圧倒するように飛んでいます。

 

 本街道からは少し離れて、茶倉駅に行きました。丘からの眺めはなかなかのものです。も色づいて紅葉真っ盛りです。

 

 烏岳も色づいて山肌がパッチワークとなりました。夕日に照らされると赤がより強くなります。

 

 茶倉駅の二階からはリバーサイド茶倉が見えます。バンガローで泊まることもできます。三本のケヤキの大樹が赤く色づき始めました。真っ赤になるともっと綺麗なのですが。川面は凪いで葉を落とした細枝が映っています。向こうの集落にはアメダスがあり、夏になると日本の最高気温をたたき出します。盆地ではないのですが、櫛田川が蛇行しておりまるで盆地のような地形になっていて夏は暑く冬は寒いです。

 

 稜線には富士見ヶ原があり、冬の風の強いよく晴れた夜明けには富士山を見ます。250km離れた富士山は雪をかぶり、意外に大きく見えます。

 

 茶倉駅は小さな駅なのですが、小高い丘にあり、朝になると一面が朝霧で覆われます。朝霧の高さによっては茶倉駅の下には朝霧ができると雲の上の道の駅になります。ここからは街灯が少ないので展望台からは星が美しく見えます。道の駅というと地元産のマルシェや食堂、温浴施設があり多くの人が訪れるのですが、ここはちょっとした地元の市場とカフェがあるだけ。その分、自然は雄大です。

 大陸生まれの冷たい北西風が吹くと辺り一面は冬模様になります。春から夏にかけては真緑に覆われる山田は冬支度。今日は小春日和となったので、外に出てみました。

 

 秋の林を覆っていたヒメシオンの花は美しいとはお世辞にも言えません。花びらはどんどん枯れていき、その代わりに種をつけ始めました。それでも枯れたような種の中に次の命が宿っていて、これも季節の移ろいを示しているのでしょう。

 

 小春日和にはやはり菊の花がよく似合います。黄色の群落はやはり去年も黄色でした。当たり前なのですが、自分には不思議にも思えます。

 

 色は違えどやはり菊です。小春日和の日差しは優しく菊の花を照らします。

 

 銀色の穂を着けたススキの花。夕日が差せば黄金色になります。かってここはススキの原でした。夕日が差すと黄金。そんなことはない。人は誇張して黄金に光ると言っているだけ。実際に夕日が差すと黄金色に光ります。

 

 小さな花。5ミリくらいでしょうか。アゲラタムの花です。花言葉は信頼。薄紫の花びらを見ていると確かに信頼にふさわしい風格をしています。夕日は早々と西の峰に傾き、ここはもう影になっています。