僕の現在のスタンスをまとめてみます。
″わからない″との付き合い方です。
例えば
インフルエンザ→危険度、対処法も含め対応可能。それでも毎年変化するから油断は禁物。
新型コロナ→正体そのものがまだ不明。危険度も変化の仕方も不明です。
この2つを比べて何かを論じるのは安心の為にはなりますが、安全の為にはなりません。
飛行機や交通事故と比べるのも同じです。
死亡者の平均年齢も然り。″平均″という考え方の危うさが分かりやすく出てるとは思います。僕、脳梗塞になる人の平均年齢を遥かに下回ってますが…そんなの僕に関係ありますか?だって、僕、なってますよ
感染症の専門家、疫学の専門家、内科医、ウィルスの研究家、薬学、肺炎の専門医それぞれに専門領域は違います。
自分が欲しい情報を言ってる人を信じたくなりますが、それは1つの見地からの意見に過ぎません。
未規定なものに対処する時に気にしない=勇敢あるいは気にしない=無謀、では無い。
″わからない″が正解です。
僕は今の社会がこれ程″わからないもの″に対して脆弱なんだなぁと改めて思います。
僕個人は性格的な側面も含めて新型コロナ、結局大したことなかったと″思いたい″自分のことをわかっているので、より注意しています。
考えるのを辞めるとすぐに自分の欲しい情報だけを集めて、見たいものだけを見ちゃいます。
″わからない″が現状の正解です。
安心する為の情報も、不安になるような情報も沢山あり、それぞれ一定程度は正しいかもしれない。
そこに対応するには半身の構え。
わからないへのスタンス、です。
そう考えると、手指消毒もうがいもマスクもソーシャルディスタンスも少なくとも安全面でのデメリットは無い。
煩わしいって事と、経済面ではとてつもなくマイナス大きいです。
なので、社会運営としてはそうした経済のデメリットは補償するしかないと思います。
簡単に言えば日本の行政の逆のやり方が正しいとは思います。Go Toとかわからないへのスタンスとしては最悪の部類。
検査を増やすことをずっと訴えているのもわからないへの対処として実態の把握を出来るだけやる必要があると思うからでもあります。
そのうちわからないが少しづつわかるに変わって行く事に期待してますが、今、声高に断言してる言説には半身の構えは崩しません。
集まってやれることの楽しさや価値を僕は少しはわかってるつもりです。
だから出来るだけやりたいしし、早い方が良いと″思っちゃいます″。
でもわからないので。
家にいてやれることは家でやり、集まらないと出来ない時は出かけてます。
常に半身の構えで判断してます。
僕は脳梗塞になるなんて当然思ってなかったし、なってから″わからない″に放り込まれてます。
両目失明してた時期も同様。
何年もかけて″わからない″との付き合い方を身につけてきました。
僕が脳梗塞にになったそもそもの原因は未だに″わからない″し、片目の視野欠損もどこの視神経の問題かは″わからない″。
その点で少しは″わからない″との付き合い方が″わかってる″と思います。
皆様の思考の健康を祈って。
あ、カレー出来ました!
宇宙平和