「古来みちのくには、いくたの傑僧奇僧があらわれている。
百五十歳の長寿をたもち、いざ命終の折にはみずから棺の内へはいり、見送りの人々に手を打ち振りつつ遷化していった会津の残夢和尚。
空中飛行の幻術を体得し、仙台平野の上空をジェット機のように駆けめぐったと伝えられる岳連。
坊主を飼育していると、やがては牛に変身して農耕に役立ってくれる ー この妄説を信じた慾ばり百姓を、逆に牛の姿にしてしまった津軽の金光坊。
ムジナ退治で勇名をはせた真言行者の無尽。男根を斬り落し、煩悩のほむらを断った桑折の無能上人。枚挙にいとまがないほどである。
さてぼくの今回の旅も、このような傑僧のひとり、鞭牛禅師の事蹟をさぐるためであった」
「鞭牛、また呼んで開路和尚とも言う。重畳たる北上の山々をきりひらき、海岸線へいたる幾条かの道路を開通させているからである。
ノミをかざして岩石に挑む聖僧の姿に、ひとはすぐ『青ノ洞門』の禅海を思いうかべるだろう。九州とみちのくと地域こそ違え共に嶮路をひらいた大仏者だ。だがそこには一つだけ異った点がある。
『青ノ洞門』の禅海は、主人殺しの前非を懺悔するべくこの苦行をえらんだ。鞭牛の方は一から十まで人のため、世のためであった。文字通り施無畏の行なのである。
禅海からは宗教ドラマのクライマックスが匂ってくる。現に『青ノ洞門』はいくた物語化されて人口にかいしゃしている。鞭牛からは、有能で忠実な道路工夫の汗の匂いだけが匂ってくる。世間が騒ぐどころか、知らぬ人が多い。ぼくが訪れた所以である」
自身が僧たる語り手は、然して宮古街道、三陸フィヨルドを巡る。寺内大吉『競輪上人随聞記』(昭和36年、講談社)の冒頭は上記の如し。
「ある意味で鞭牛は不幸な仏者であった。経典をひもとく暇もなく、人生を思惟する時間にも恵まれず、説法することさえできなかった。七十二年の生涯を、明け暮れ無心の岩石に捧げねばならなかったからだ。
行程八日間、しかしぼくは北上の山々にこだまする鞭牛の大獅子吼を聞いた。打ちよせる三陸の潮騒のなかに、彼の透徹した思惟の呟きを聞いた」
季節は春。「ぼく」は鞭牛の事蹟に酔いしれて、盛岡から東京へ帰る夜汽車の客となる。
仙台で夜が明け、常磐線は更に南下。車内放送が告げる。
「間もなく平(現いわき駅)に到着します」
平という言葉を聞いた途端、彼は
「聖僧鞭牛へ向けていた眼路を、この瞬間くるりと転換させてしまったのだ。あわてて或る特殊な雑誌を広げている。
『やってる、やってるぞ』
ひとり快哉の叫びを放つと、平で途中下車する支度にとりかかっていた。
すでにぼくの心は鞭牛から遠のいた。三陸の断崖を見失った。そしてまだ見ぬ田舎街の、人口のゆるい傾斜面へ想いをはせているのだ。
人口の傾斜面 ー それは競輪場の走路であった」
聖から俗への極端な転回と、笑うこと勿れ。寺山修司「単勝の思想』よろしくギャンブルは、思想に転化し得るのだ。
ただしそれは、一部の者の特権である。『競輪上人随聞記』は、続くテキストでこれを明らかにする。
本書は別途紹介します。
◆第65回宝塚記念(阪神競馬場改装中につき、今年は京都。芝2,200m・G1)
土砂降りの雨が降る京都。レース1時間前にいったん上がるも、ゲートが開く頃には再び。
馬場は当然、重。
1,000m通過が61秒ならば、この重い馬場では平均か少し速め。が、実際のラップは
12.4 - 10.9 - 12.3 - 12.7 - 12.7
と、2ハロン目を除けば12秒台が並ぶスローペース。3コーナーの坂下からローシャムパークが上がっていったのも宜なるかなで、いっぽうドウデュースの武豊が後方儘・動かなかったのは解せない。
また、坂の下りにかけて武は、馬をなんぼでも外に出す機会があったのに、直線でも結局内側。宝塚記念までに今日は芝のレースが三つあり、みんな伸びない内を避け外を通っていたことを武豊が知らぬはずはない。
つまりドウデュースの敗因は武豊の騎乗ミス。衰えたり、武豊。
同じ後ろにいても、勝った馬はローシャムパークが上がっていった時、連れて徐々に動いた。そして直線は、外ラチ沿いと言わんばかりの大外へ。ペースの読み(騎手特有の、体内時計による体感)とコース選択が、武と菅原明良との差。アキラに良は要らない。重でじゅうぶん。
天皇賞(春)を見るまでもなく、ブローザホーンは良馬場でも、ペースがどうであれ来ますからね。まして得意の重馬場なら。
ソールオリエンスも大外へ。ブローザホーン、ベラジオオペラの背後から差してきた。一瞬ベラジオの後ろで詰まったから、あれがなければ勝ち馬とはもっと際どかったかも。
わたしの買い目は(↓)でした。
◆最終追い切り評価
ベラジオオペラ、勝ちに行っての3着。ドウデュースを迂回して、ワイド(と複勝)で仕留めた形。
ご馳走様で御座いました。
これで上半期のG1戦績は、
・フェブラリーS ✖️ (ただし、カッとなって代わりにサウジカップを一点で仕留めた)
・宮杯 ✖️
・大阪杯 ○
・桜花賞 ○
・皐月賞 ○
・天皇賞 ○
・マイルC ✖️
・ヴィクトリアM ○
・オークス ○
・ダービー ○
・安田記念 ✖️
・宝塚記念 ○
8勝4敗。まあまあだろ?
ホームランを狙わず、相馬眼と論理でもって当てにいけば、これくらいは。
※ それでも全然〝トリガミ〝じゃないですぜ。回収率は200%を超えてます。
惜しむらくはマイルCの買い方(ジャンタルマンタルとアスコリピチェーノ、来るに決まってる2頭からの三連複なら、いちばん追い切り良かったロジリオンは拾えた)と、安田記念のロマンチックウォリアーの単勝未遂。この辺が、まだ詰めの甘いところ。
特に安田記念のロマンチックウォリアー。追い切り見ても「これは勝つでしょう」と思いながら、単勝一本にできなかった。
要は、
「さてその日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに『さあ、向こう岸へ渡ろう』と言われた。そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままでイエスをお連れした。他の舟もイエスについて行った。
すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって水でいっぱいになった。ところがイエスだけは、艫のほうで枕を高くして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。
『先生、わたしたちが溺れて死にそうになっていても何とも思われないのですか』。
イエスは起き上がって、風を叱りつけ、湖に『黙れ、静まれ』と言われた。すると風はやみ、大凪になった」
「イエスは弟子たちに言われた。
『どうしてそんなに怖がるのか。ここまで信仰がないのは、いったいどうしたことか』」
ー マルコによる福音書 4章35節〜
競輪上人は言われる。
「いいか、余計なものを買うなよ。このとおり一本で買え。本当に救われようと思ったら、あれこれ構わず念仏ひとすじに生きろ」
「どうせ俺たちは、煩悩というものが体の中にこびりついていて、断ち切ろうと思っても断ち切れるものじゃない。だから汚い体のまま、汚れた体のまま阿弥陀様におすがりしろ。
この俺も坊主の身でありながらギャンブルの世界に飛び込んできた。その俺がお前たちに教えることはこれだ」
「いいか、車券は外れることを怖がっちゃいけない。取れる時は一本で取れ」
「あれこれ迷うな。救われることを恐れちゃいけない」
◆映画『競輪上人行状記』(1963年、日活)
つまり、俺には信仰が足りない。
※ ちなみに、競輪上人は語り部の「ぼく」ではありません。もっと凄げぇ話です。