ダメ人間の末路 | Roll of The Dice ー スパイスのブログ ー

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稀に・・・となるかも、ですが、音楽や演劇、書籍について書きたく思ひます。

ああ、今日も仕事をサボっちまった。そんな私はダメ人間。

数年前まで自分は無職。むしょくというより「ぶしょく」であって博打うち。競馬だけで食っていた。

鬱が昂じて朝、決まった時間に仕事へ行かれる段じゃない。ほとんど寝たきり、何もできない。掃除をしないのでシステム的に我が家はゴミ屋敷と化した。

 

鬱を脱却したのはヤクをやめてから。きっかけは映画で、かつての天才詩人がグダグダになり、家おん出されてホームレスにまで転落す、マシュー・マコノヒー『ビーチ・バム』

◆予告編

 

 

そう。仕事をするとはとりもなおさず「世界とつながる」ことなのだ。

 

観た映画、他には山本薩夫の『東京裁判』、大島渚『戦場のメリークリスマス』(4Kリマスター版)、デヴィッド・バーン@トーキング・ヘッズ珠玉のミュージカル『アメリカン・ユートピア』

 

 

など。

近所のミニシアターまで観に行かれるように。つまり、引きこもりが外出できるようになった。

同時にヤクの、飲まなければ頭がくらくらする禁断症状から解放された。

 

かくなるベクトル=回復ベクトルを備えてくださりキリストの神は、俺に仕事を与えてくれた。それが今の仕事ってわけ。

 

要は、今の仕事は神が与えてくださったジョブなんだが、昨日今日と自分はこれをサボった。罪悪感が半端じゃない。

 

確かに疲れていたし、日曜以来、延々眠たい。疲れが溜まっていたのかも。

それでも(お客や何かはもちろん)先ず神様に対して申し訳なく。。。

主イエスよ、どうかお赦しください。悔い改めます。

 

俺は再びダメ人間になるのだろうか。いやもちろん、仕事を二、三日サボったくらいで直ちにダメ人間になるとは極論である。

が、以前が以前なだけに、「落ちる」のを恐れている自分がいる。

 

今や芥川賞作家と化した町田康も、かつてはダメ人間・町田町蔵であった。

写真は人民オリンピックショウの頃。

 

 

 

 

氏は自分と同い年である。それでも町田氏には才能があり、日本のパンクの嚆矢であった。

作家としては幾つかの詩集を経て、仏ドゥマゴ賞をとった『くっすん大黒』 ー 表題作よりB面の『河原のアバラ』の方が面白い ー に、第123回芥川賞作品『きれぎれ』等をものし、いまやロッカーというより文学者である。

 

が、パンクをやってた70-80年代には食いつめた。にも関わらずほぼほぼ労働を忌避。インカムなければ支出を極端に減らすデフレ作戦。毎日花かっつぉ(花鰹)と、うどん玉だけで糊口を凌ぐ、そんな生活。

「雌伏」とは、のちにブレイクしたからこその後付けの言葉であって、当時の町田氏には先の見えない暗黒の日々だったろう。なぜ世間はわかってくれないのか。

小林秀雄は申します。「誰もわかってくれないことを、やがて自分も疑うようになる」。

この点のみ俺も同じだ。劇団四季評を初めとし。

 

そう。下手に相馬眼があり、ものの善し悪しわかってしまうと却って孤独に陥るのだ。陥るだけならまだ良いが、正しい指摘をした途端、世間はむしろ、ディスりだす。

なぜか。己の目が節穴なのを指摘されたような気になるからだ。なんなら薄々勘付いていたことを、他人にずばりと刺されたからだ。

※ 自分自身 ー 意識するとせざるとを問わず ー 薄々感じていることを他人にずばりと言われると、人は概ね、怒るか無視する。

 

町田クンは雌伏の時代、そんな風であっただろう。

 

数年前に義経をパンキッシュ・ポップ調に描いた彼の新作『ギケイキ』を読んだ。つまらなかった。

町田氏の、あっち方向にキレッキレ・パンキッシュだった持ち味が、滑りまくっているように思った。かつての食いつめパンク野郎が功なり名を遂げたからだろうか。

『ギケイキ2』も売れていると聞く。“元パンク歌手にして芥川賞作家の町田康“といふブランドの為せるわざでないと良いのだが。。。

 

労働忌避/超低空飛行的には、以前の町田氏と並べ、この人を勧める。

 

 

 

以下、Wikipediaより抜粋。

 

 

川崎長太郎(1901-1985)。日本の小説家。

神奈川県足柄下郡小田原町(現小田原市)出身。神奈川県立小田原中学校中退。はじめアナーキスト周辺で詩作をしていたが、その後徳田秋声や宇野浩二と出会い、彼らの系譜を継ぐ私小説家となる。1935年に一度『余熱』で芥川賞候補になるも、長く不遇の時代が続き、実家の物置小屋に住んで貧しい生活を続けた。1950年代に『抹香町』『鳳仙花』などの作品で、物置小屋に住みながら私娼窟に通う初老の男と娼婦の触れ合いを哀感をもって描いて好評を博し、一時ブームとなる。晩年の1970年代に著作の出版が盛んになり、1977年に菊池寛賞、1981年に芸術選奨文部大臣賞を受賞し芸術的評価が定まった。

 

小学校卒業後、土木技師になろうと朝鮮半島に渡るも脚気を患い小田原に帰る。1917年、小田原中学に入学も、図書館の本を盗んだことが発覚して退学。家業である魚屋を手伝い、箱根の山を徒歩で登り下りして配達。そのうち箱根登山鉄道ができると、行き帰りの車内で小説を読むようになり文芸熱が高まる。

 

1920年代、小田原に来た加藤一夫らアナーキスト作家に影響を受ける。しかし加藤を監視していた警察の差し金で、実家の顧客である箱根の旅館から出入り禁止となる。加藤とともに上京し、アナーキズム雑誌を発刊するが行き詰まり、小田原に帰る。

小田原で関東大震災に遭う。

 

再び東京に出、文士講演会の要約や文士の訪問録などで生活の糧を得る。この頃、徳田秋声や宇野浩二、牧野信一らと出会う。徳田の推挽で『無題』が雑誌『新小説』に掲載され、文壇デビュー。

小説や随筆だけで暮らしを立てようとするも直ちに困窮し、下宿代が払えなくなる。徳田の家に居候するが、プロレタリア文学の興隆で徳田自身仕事が減ったため、いたたまれずに小田原へ帰る。

 

小田原のカフェの女給と恋仲になり名古屋に駆け落ち。東京で所帯を持ったが経済的に困窮し、破局。

1933年、父・太三郎が胃癌で死去。実家は弟の正次が継ぐ。

 

満州事変の頃にはプロレタリア文学が退潮。人気の落ちていた宇野浩二が『枯木のある風景』で返り咲く。田畑修一郎、嘉村礒多らと宇野浩二を年に一度囲む『日曜会』を始め、そこで中山義秀と親しくなる。1934年、初めての著書『路草』を上梓するが文学だけでは生活が成り立たず、通信社の記事執筆で収入を得る。

1935年、『余熱』が第二回芥川賞の候補となる。1937年には『朽花』を上梓するも、世は国策文学の時代となり、居場所がなくなる。翌38年、逃げるように小田原へ帰る。同年、文学仲間の田畑修一郎と中山義秀が芥川賞で競り合い、中山が『厚物咲』で受賞。

 

実家に戻ると、漁師の網や魚箱を入れるための、トタン屋根の物置小屋で暮らすようになる。畳を二畳敷いて座り、ビール箱の上で執筆した。電気も水道も引かれておらず、洗面は公衆便所で済ませ、冬は蝋燭で暖をとった。物置小屋で暮らしてから結婚するまでの間、小田原のだるま料理店で日に一度、ちらし丼を食べた。

 

1943年、田畑修一郎が心臓麻痺で急逝。徳田秋声も癌で逝去。家督を継いだ弟のもとで母を看病していたが、翌44年、母は喉に痰を詰まらせて死亡。通信社から請け負っていた文芸時評の仕事も失い、ほとんど無収入となる。パンや弁当の折詰を万引きして食いつなぐも、44年、海軍に徴用。横須賀や父島で軍足人夫として力仕事に勤む。

 

戦後、出版が活況を呈すると原稿の依頼が増える。物置小屋から小田原の赤線地帯である抹香町に通い、そこでの娼婦との触れ合いを描いた〝抹香町もの〝が好評を博す。特異な生活を送る川崎にジャーナリズムは奇異の目を向け、〝長太郎ブーム〝が起きる。物置小屋には人妻、女給、未亡人などさまざまなファンが訪れ、彼女たちと関係を持つ。

彼女たちとの関係も小説の題材にするが、徐々に人気は翳りを見せる。1958年、売春防止法が施行され抹香町が消える。1961年には宇野浩二が死去。

 

1962年、物置小屋を訪ねてきたうちの、約30歳下の女性と結婚。小田原市内の旅館の一室を間借りする。67年、脳出血で倒れ右半身が不随となる。69年、中山義秀逝去。

原稿依頼も途絶えかけ貯金を取り崩して生活していたところ、71年、雑誌『海』の編集者から執筆を求められる。これを機に著作の雑誌掲載が多くなる。

 

83年、脳梗塞で倒れ小田原市立病院に入院。85年、同病院にて肺炎で死去。

 

 

川崎長太郎を知ったのは、諸人同様つげ義春の『ふっつ・とみうら』(新潮文庫『貧困旅行記』所収)で。老人と、中年にさしかかった妻とが千葉から神奈川へ向かうフェリーの船中で、あれやこれやを思い語る。その佇まいは穏やかながら、火葬場の煙など死を彷彿させ心惹かれた。

代表作『抹香町』や『路傍』は、物置小屋に住む汚らしい老人が、ふんどし垂れ下げ引きずらんばかりに売春宿へ向かうその性/生への妄執。ずるずる這いずる生き様が、侘しい筆致で綴られている。

 

自らを俯瞰し、鋭くえぐる。人生の達人である。

※ 実際川崎長太郎を有楽町で目撃した人によれば、眼光鋭く、剣の達人の凄みがあったとか。

 

ラスト若い妻を得て、看取られ死んだ川崎長太郎。その伝で言うなら氏は低空から上昇したのかも知れない。

が、あくまでそれは「結果」であるように思う。生き様自体が、それこそパンク。

 

自分は氏ほどパンキッシュに生きられぬ、中途半端な者である。この、うろうろじゅくじゅくする中途半端をこそキリストの神は憐れみ、俺を招じてくれたのかも知れない。

そして自分は誰ひとり看取る者のない、寂れ壊れたむかしの文化住宅で、海風の音を聞きつつ死ぬるのが理想である。

ダメ人間の末路として、これほど相応しい死に方はない。

 

音は町田町蔵、『ボリス・ヴィアンの憤り』は和田哲郎(連続射殺魔)と。