今日は漫画週刊誌の日。。。 | Roll of The Dice ー スパイスのブログ ー

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漫画すか。読まんスね。
漫画読む暇あったら、また買う金あったら、書籍を読みかつ買うです。
 
〝大人が漫画を読んでも叱られない=市民権を得た〝のはいつからだろうか。自分の記憶によると80年代初頭、うちの両親が
 
「いまは大学生にもなって漫画読むげな!」
 
と驚き嘆いていたのを覚えている。
 
当時はスマホどころか携帯電話もなく、電車の中で読むのは新聞か本。そこへ漫画を読む大人が現れた。
世間はちょっとした驚きを以て受け止めた。そんな記憶がある。
 
だが〝漫画を読む大学生〝の登場は、60年代に遡るようだ。週刊少年ジャンプ等の漫画誌が相次いで創刊、全共闘世代(団塊の世代)の学生に受け入れられた。
三島由紀夫も例の東大全共闘との討論を通じ、〝受け入れられた〝。

 

 

机と生産関係の指摘は、ほんのちょっぴりマルクス主義に寄せ正鵠を得ている。この辺り、氏の東大の後輩に対する愛情を覚える。

にも関わらず三島さんの自決は、漫画的ではありました。。。

 

話を戻します。
 
それまでは ー それ以降も久しく ー 「漫画なぞを読むのはせいぜい小学生まで。中学に上がって漫画など読むのは恥ずかしい事」といふのが、いわば常識。心身とりわけ精神が成長するに伴って、漫画は卒業すべきアイテムのひとつであり、卒業出来ない者は
 
「発達が遅れている」「幼稚である」
 
そんな、(大袈裟にいえば)社会的コンセンサスがあった。
自分らの親世代は概ね大正末から昭和一桁だから、〝大人が漫画を読む〝なぞ全く理解不能だったに相違ない。
 
親世代が中坊のころ何を読んでいたかというと、むろん「文字」。絵ではなく、文字であり文章。
漫画がなかったわけではない。田河水泡『のらくろ』や横山隆一『フクちゃん』などは、親世代にも馴染みのある作品だろう。ただ、小学生でも猿飛佐助。中学に入れば漱石鷗外、藤村などの文学。
ちょうど思春期に差し掛かり、「どう生きるべきか。人間いかにあるべきか」を自問し始めるから、のらくろ二等兵の出世物語には飽き足らなくなる。
 
当時は劇画、つまりドラマ仕立てのリアルな漫画がなかったこともあろう。ただ、文字情報オンリーの場合、文章構造とその流れを無意識のうちに解析しないと読解できない。絵がないからもっぱら文章を、脳内で映像化せざるを得ない。
いきおい想像力が鍛えられる。漫画のように(あるいは映画のように)、一方的に与えられたイメージ情報に拘束されないから、各人自由に飛翔できる。
※ 映画との甲乙ではなく、メディアとしての種類の違いを言ってます。
 
そして読むとは「思う・考える」事である。
人物関係図を常に押さえたり、ストーリーを追うだけではない。文章をひとつひとつ読むにつれ、読み手の思考は飛翔する。
まことにアレな例だが、自分の経験をご紹介。
 
「みなさまご存知のように、末尾に子がつくクラシックな名前は、いまじゃさっぱり流行りません。
『たまひよ名づけ百科』(ベネッセ)によると、雑誌『たまごクラブ』『ひよこクラブ』の読者三0万人から寄せられた女の子の名前トップ10は、①美咲、②茜、③桃子、④彩、⑤千尋、⑥愛、⑦葵、⑧里奈、⑨舞、⑩楓、です。
三位に〝桃子〝がランクインしているのは意外でしたが、これは文字も込みの統計。音、すなわち呼び名だけに注目すると、またちがった結果になる。
①あやか、②はるか、③しおり、④さき、⑤まい、⑥りな、⑦ゆか、⑧みさき、⑨なつみ、⑩さやか。以下、りさ、かな、ゆい、みほ・・・と続き、三四位ももこ、四九位かなこ、五一位ゆうこ。子のつく名前は、上位一00のうちたったの九。じつに一割以下でした」
 
(『あやかの将来』ー 斎藤美奈子『あほらし屋の鐘が鳴る』(文春文庫)より)
 
副題に〝子どもの名前に込められた過剰な期待と勘違い〝とあるように、著者は「思い入れ過剰な名前は、子どもをマスコット化したがる親の意識のあらわれだが、親の大げさな(的外れな)期待は、子どもには迷惑なだけ。場合によっては成長の妨げにもなる。警戒すべきは親の勘違いなのだ」と。
 
いっぽう、自分がこれを読んだとき脳裏に浮かんだのは百恵ばあさんのこと。
中学生の頃は山口百恵の全盛期であった。通学路に、あるおばあさんが一人暮らしをしている家があり、表札には「✖️✖️百恵」とあった。
俺ら悪ガキがエキサイトしたのは言うまでもない。狂喜乱舞し我々は、家に石を投げんばかりの勢いで
「やーい百恵、出てこ〜い♪」
と、行きも帰りも道すがら。
 
ばあさんにすれば、たまったもんじゃない。直ちに学校へ通報。当然ながら、我々はこっぴどくお灸を据えられた。
しかし自分は考えた。
 
「確かにやり過ぎた。が、腰の曲がった汚ねぇババアに〝百恵〝とつけた親御さん。いかがなものか」
 
斎藤美奈子の文章に触れ、そんな50年前のことを思い出した。「つーか、老いさらばえても一生付き合える名前をつけるべきじゃね?」。
親は概ね女の子に、10代から20代の〝蝶よ花よ期〝を想定して名前をつける。男の子なら「翔」とか「海斗」とか、ジャニーズ系のを。
だが人生厳しいもので、いずれ翔も海斗も、ちょっと立ち上がっただけでオチッコ漏らしちゃうのだ。
飛翔するの段ではない。地面にへばりつき、一歩も動けない。そんな日が確実にくる。
 
かくなる想起が漫画じゃ無理とは言わないが、文章だからこそ ー 先述のとおり、イメージ情報に拘束されないので ー 駆け巡るのも確かだ。
 
漫画を少し擁護すると、例えばつげ義春はイメージをイメージのままで文学化していると思う。
 
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これは小説にはできない技だ。文章で表すと、どうしても冗長になり脳内イメージが拡散してしまう。
つげさんが、作家安部公房と並ぶ日本のシュールレアリストと言われる所以である。
 
ーーー
 
音は百恵ばあさん。
◆さよならの向こう側

 

 

 

あくまでも楽曲的には、桜田淳子の方が好みなんだが。

これなんか、ほぼほぼロケッツ(シーナ&ロケッツ)の『真空パック』よね。

◆ミスティー

 

 

違うか。

 

◆気を取り直して、リップスティック

 

 

 

ーーー

 

余談。

 

桜田淳子、森昌子、山口百恵の中三トリオで最も色っぽいと称されたのが百恵さん。

ばあさんに、石を投げんとしていた全盛期。同時に母親はこうも言っていた。「まだ若いくせに色気があり過ぎる」。

 

後年自分は就職。東レ(お客様)にいた美人のハルちゃんが、ある日言った。

 

「女もある年齢になると、システム的にフェロモンが出る。男の人にそれは魅惑的だが、同性にとっては敵意の種となる」

 

俺は直ちに、いかに優秀な相手を獲得するかの競争たる自然界を想起した。

そしてハルちゃんもまた、漫画じゃなくて文学の徒であった。。。