金やあれこれ、徒然草 | Roll of The Dice ー スパイスのブログ ー

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ないスね。競馬くらいかな。
 
さて、永積安明といふ東大文学部の先生が、こんな書を1982年に上梓。
 
 
絶版だったのが2013年にアンコール復刊。おそらく『復刊ドットコム』あたりでリクエストが多かったものだらう。
 
 
「いわゆる第一部の、およそ三十段を読み終わって第二部に入ると、これまでの和文脈を中心とする文体の流れの中に、漢文訓読形式の主導する硬質の文体が展開しはじめる。たとえば、
 
『名利に使はれて閑かなる暇なく、一生を苦しむるこそ愚かなれ。財(たから)多ければ身を守るにまどし。害をかひ累(わづらひ)を招く媒(なかだち)なり』
 
にはじまる第三八段などがそれで、現世の名利に一生を引きずりまわされる人びとの愚を鋭く批判し、
 
『金(こがね)は山にすて、玉は淵に投ぐべし。利にまどふは、すぐれて愚かなる人なり』
 
と断言するその第一節から、名誉を求めて高位・顕官を望む者、智恵と徳性との名声を得ようとする者に対しても、
 
『つらつら思へば、誉を愛するは、人の聞(きき)をよろこぶなり。誉むる人、そしる人、共に世に止まらず。伝へ聞かん人、またまたすみやかに去るべし。誰かを恥ぢ、誰かにか知られん事を願はん。
誉はまた毀(そしり)の本(もと)なり。身の後の名、残りてさらに益なし。これを願ふも次に愚かなり』
 
と説示し、安定することのない相対世界に名誉を求める愚を指摘したうえで、それにもかかわらず『しひて智をもとめ賢を願ふ人』に対しては、
 
『智恵出でては偽(いつは)りあり、才能は煩悩の増長せるなり。伝えて聞き、学びて知るは、誠の智にあらず』
 
と、智もまた欲望の表現にすぎないことを説いたうえで、
 
『いかなるかを智といふべき。可・不可は一条なり。いかなるかを善といふ。まことの人は、智もなく徳もなく、功もなく名もなし。誰か知り誰か伝へん。
これ、徳を隠し愚を守るにはあらず。本(もと)より賢愚・得失の境にをらざればなり。迷ひの心をもちて名利の要を求めるに、かくのごとし。万事は皆非なり。言ふにたらず願ふにたらず』」
 
 
前段の、名利を求めることの虚しさ小賢しさは〝金持ちが天の国に入るのは、ラクダが針の穴を通るより難しい〝と説いたイエスの言にも通ずる。また、続く「名誉」「世間」の相対性、つまり名誉はしょせん世間にディペンドしていて、いったん風向きが変われば誉れも謗りに転化する、そんな空しいものを追求することの愚は、「風の行く先は、誰にも分からない」(伝道者の書)を彷彿させる。
 
深いのは「知」や「徳」に対する見方であり、可も不可も同じことだと。同一線上にあるのだと説く。
これと「真」とは位相が異なるのだと。「本より賢愚・得失の境にをらざればなり」。
キーとなるのは〝迷ひの心をもちて名利の要を求むるに、かくのごとし〝。迷いの心があるならば、名利も賢愚も全ては「非」である。兼好の、宗教/信仰へのベクトル・信頼が強く感じられる。
 
映画評論家の町山智浩をはじめ、キリスト教の反知性的側面を指摘する向きがある。そもそもアダムとエヴァ(イヴ)がエデンの園から追放されたのは、蛇=サタンにそそのかされて「善悪の知識の木から取って食べた」から。また、賢しらに知恵や知識を振り回す者を、キリストの神は戒める。これは『ヨブ記』や福音書に詳しい。
ただし、町山氏が言うようにはキリストの神は「だから馬鹿であれ」とは言っていない。馬鹿であるのはもっぱら神の御許であって、前提されるのはあくまで、偉大なる神の「知」なのだ。
その前では相対的に、いかな賢者であろうと人間は、馬鹿であるほかない。〝それを知れ、それをわきまえ慎ましくあれ〝と神は諭すので、キリスト教はいわゆる反知性主義とは何の関係もない。
 
兼好も、『徒然草』の第二部からは、仏教や老荘思想への傾きが顕著になってくる。宗教や哲学が分からないと、聖書も徒然草も、たちまち理解が覚束なくなる。
 
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音はGo Go‘s。
◆Head over Heals