エロスと清浄、その発露 | Roll of The Dice ー スパイスのブログ ー

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稀に・・・となるかも、ですが、音楽や演劇、書籍について書きたく思ひます。

 

 

「澁澤龍彦君は『海』にロベール・デスノスがエロティックについて論じたところの微旨を祖述してゐる。デスノスは〝その道徳にエロティックの含まれていないどんな哲学も不道徳である〝と断じて、『愛欲が絶対の内部で純潔と淫蕩とを兼ね備えている、この精神の隠れ家に閉じこもりたいと願わぬ者があるだろうか』といふ。

ちなみに、デスノスに依れば、エロティックとは『愛欲に関する学』であり、また『個人的な学』である。そして、『脳髄作用のエロティシズム』をもつて『あらゆるエロティシズムのうちで最も高められた』ものとする。澁澤君はシャレた學門をマジメにはげんでゐるひとだから、説くところがふらつかずに博捜つまびらかである。詳細はその文について見るべし」

 

「なほデスノスに依れば、エロティック文學の歴史はサド以前と以後の二つに分けられる。この分け方はたれが考へてもおそらくさうなるだらう。ところで、サド以後から今日までのあひだに、もし期の分つべきものありとすれば、それはどのあたりか。

しばらく文學史から離れて、わたしの個人的なことをいへば、わたしは少年のころビヤズレイの畫を見ることをあたかもそこにエロスのまぼろしを追ふがごとくに好んだ。あとから考へると、エロスのギリシア的な像と近代的な像とが畫画におぼろげにかさなつて見えるのに目がちらちらしたといふことらしい。この美神にして娼婦なるもの。いかなる神をもおそれることを知らぬつめたい色慾にみちたサロメ像。それは清浄なものといふ印象であつた。

これもあとからの考になるが、清浄とはそこに聖なるものを漠然と感じたといふやうなことである。ともかくわたしにとつて、フリーセックスの歴史の中では十九世紀から二十世紀に入る廊下の壁かなにかにビヤズレイの畫がイコンのやうにぶらさがつてゐるといふおもむきがあつて、その残像がいまだに消えない。歴史がこれに追認のハンコをついてくれるかどうか」

 

「今日のセックス状況では、なにか漠然たるものがかたまつて行つて聖観念になりさうな見こみはまづ無い。また畫でも彫刻でも、ヒッピー現象の中から形式を取つてあらはれたものがその場に定著するといふことはおそらくありえない。といふのは、できあがつたものはかならずそれ自體に於て消えるべきものであつて、成立すなはち破壊、出現ただちに破裂といふ必然の上に、すくなくともさういふ否定的な假定の上に、すべての反藝術あるひは非藝術が立つてゐるはずだからである。

これは内にしまつておく品物ではなくて、外にむかつて發すべき運動である。これを見よ。なにものに見せるか。たれよりも秩序に見せなくてはならない。

挑戦である。この挑戦の仕方は運動を見世物のかたちに仕立てることになる。この見世物には舞臺と客席とのしきりはない」

 

「そろそろ解放といふことばを使つてもよささうである。セックス解放は、まだ口はばつたいことはいへまいが、やがて解放一般に通ずべきものである。そのあかつきには晴れて革命といふことばを使はなくてはなるまい。

とうのむかしにボードレールがかういつてゐる。『革命は色慾さかんなるもの(des voluptueux )に依つて成つた』。今日のヒッピー現象もどこかの一端で革命の精神につながつてゐなくてはナンセンスといふことばすら最低にナンセンスになるだらう。

白日の下に著せられたものを脱ぎ捨てれば、精神の骨格の強弱があらはれる。セックスがものをいふかいはないかは密室の中だけのことではない」

 

(石川淳『文林通信』 ー 昭和45年1月)

 

◆Yazoo ー Don't Go