本日は冬至です。二十四節気第二十二節気。


 旧暦十一月三日。


 『暦便覧』では「日南の限りを行て、日の短きの至りなれば也」と説明されています。

 冬至とは、冬が極まり、一年で一番昼が短い日であり「太陽の復活」の日でもあります。

 ちなみに、クリスマスも冬至の祀りであったものが、いつしかキリストの生誕祭へと変わっていったということなんですね。

 冬至といえば、柚子・かぼちゃ。
 冬至に柚子湯へ入ると風邪をひかないと言われ、身体を温める効果のある柚子の効果と柑橘系の香りでゆったりリラックスもいいですね♪
 邪気を払うともいわれ橙などとも同系の意味合いがあるかと。

 かぼちゃを食べるようになったのは「ん」のつくものを食べると運気が上がるという風習によるものだそうです。かぼちゃは「南瓜(なんきん)」ですので、よく食べられるようになったとか。んが二つつくものが好まれるそうで

・南瓜(なんきん)=カボチャ
・蓮根(れんこん)
・人参(にんじん)
・銀杏(ぎんなん)
・金柑(きんかん)
・寒天(かんてん)
・饂飩(うんどん)=うどん

 で、冬至の七種(ななくさ)とも言うそうです。
 さらに言えば、南瓜は夏に穫れる野菜で、陽の食べ物です。冬至は陰の極まる日ですから、陽の食べ物を食べて気を補う訳です。
 
 茶道具では蜜柑水指や阿古陀茶器や阿古陀茶入が活躍するころです。


 そろそろ綿入れの季節ですね。
 旧暦十二月から綿入れを用います(二十四節気では寒の入りから)。
 暖かい恰好の準備をいたしましょうか♪
 
掛軸としては「三冬枯木花」「三冬無暖気」「三冬鉄樹満林華」が相応しいですかね★彡

 

 

 

 

 

 

 

 本日は霜月朔日。

 

 旧暦十一月一日です。

 そして、二十四節気の大雪でもあります。

 

 霜月というのは「霜降月」が略されたとされています。

 ちなみに新暦の11月は霜月ではありません。あれはカレンダー業界が、和暦の旧月名を新暦に勝手に当てはめて使いだしたのが最初で、Wikipediaなどの記述も書き換えられてしまっていますが、旧月名は「陰暦月の別名」が正解です。

 

 霜月は、仲冬にあたり、別名というか異称ということではありません。

 

 また、神無月の次の季節ですので、「神帰月(かみきづき)」といって、神様が帰ってきたことを祝う月でもあります。「神来月」とも書きます。

 

 神楽月【かぐらづき】⇒冬至に神楽を奉納することが多いことから

 

 雪待月【ゆきまちづき】⇒冬支度をして雪が降るのに備えることが「雪を待っているようである」ことから

 

 建子月【けんしづき】⇒冬至を含む月には北斗七星の柄が真下を向く(子の方角)ことから

 

 辜月【こげつ】⇒辜は「古」+「辛」。罪と同系の成り立ち(罪の旧字は「自」+「辛」)。古は「ふるいかぶと」の意味で、「かたい・ふるい・いにしえ」の意味があります。「辛」は「入れ墨をするための針」の意味で、転じて「つらい」の意味があります。実は旧暦よりも古い暦では「冬至が正月」であったそうなので、辜月は「古い正月」を意味するのかもしれません。

 

 霜見月【しもみづき】⇒霜をよく見かけることから

 

 天正月【てんしょうげつ】⇒冬至が年始だった暦の名残

 

 陽復【ようふく】⇒一陽来復。冬至のこと

 

 竜潜月【りゅうせんげつ】⇒龍潜とは龍が潜んでいるように「英雄・賢人が世に出ないで隠れていること」または「天子がいまだ位に就かないでいること」や、その期間、その人を意味する言葉で、おそらくは冬至で改まった古い暦も、旧暦の正月(春)まではまだ間があることから龍が潜むように日差しが強くならないことを言い表したものかと思います。このあと「寒中」がくることからも、そうではないかと。

 

 さまざまな別名がありますね。

 みなさんも新暦を旧月名で呼ばずに正しい日本語ライフを♪

 冗談めかして「月桑庵流点茶術」などと嘯(うそぶ)いていますが、本気で美味しくなる点て方であることは、絶対の自信があります。

 

 この点て方の肝腎な点は「茶筅が自立する」ことです。

 

 しかし、ふと、朝思いついたのです。

 

 この内穂は村田珠光が鷹山民部丞入道宗砌(鷹山頼栄の次男)に造らせた際の発明で、それ以前の茶筅には内穂がありません。

 

 つまり、天目では「茶筅が自立する必要がなかった」ということなんだと思います。

 

 これは、天目の形が尻窄まりで、茶筅に内穂がなくとも安定していたからだと思われます。

 

 しかし、天目から離れ、珠光青磁などの口が開いた茶盌を使うようになると、外穂だけでは茶筅の安定感が得られなかったのではないか?

 

 という仮説です。

 

 これは、内穂を取り払って、点ててみるしかないのですが、おそらくはそうなのではないかとおもいます。

 

 私の茶筅捌きでは、茶筅を持たないため、茶筅の振り子運動が肝腎であり、それには茶筅の安定が不可欠だからです。

 

 これは、「実験の価値あり!」ということで、改築工事中に試してみたいと思います!


 未だに疑問だったのですが、別のことを調べていて「一束立ち」という表記に出会いました。


 なるほど、これならば意味が通ります。一束立ち・一束坐りということになるかと。


 同じ音で一足と書いたことで意味が通らなくなったのではないかと思います。


 でも靴下は二つで一足だから一足でも意味は通ると言えば通るんですかね?


 表記揺れなのか改めて検証してみたいと思います。

 ちょっと前に、「附下げに紋を入れます」と言っていた知人の茶道家がおられて「え?」と思ったのですが、あまり親しい訳でもないので、黙っておりました。

 

 ですが、私の認識では「附下に紋は入れない」となっていたので、Threadsでそう書きましたら、「附下は附下訪問着の略です!!!!!」と噛みつかれました。

 

 では、本当のところ、どうなのか、服飾の本や着物の本、文献にさらりと当たってみました。

 

 附下とは、元々は仕立て方の名前で、訪問着と同じく、すべての模様が肩山を頂点として上向きになるよう「反物の状態で絵付けをしたもの」を言います。

 

 上から下に向けて柄が大きくなるようにするのを基本としていますが、衿と肩や、衽と前身頃、後身頃の模様が横につながっていないものです。これはわざとずらしたのではなく「元々合うように作られていない」ものなのですね。

 

 附下が生まれたのは大正時代。時代の要請で、外出の増えた女性向けに、訪問着ほど格式がなく、小紋よりも高級なものということで、「外出着」として始まります。当然紋は付けません。ここで訪問着と一線を画します。

 

 太平洋戦争中、絵羽柄の訪問着が禁止された(奢侈禁止令・華美禁止令・贅沢禁止令などといわれる)ため、代用品として訪問着扱いされるようになります。

 

 戦争が終わり、奢侈禁止令は解除されましたが、物が少ない時代のこともあり、この状態は昭和30年代頃まで続きましたが、徐々に豊かさを取り戻した民衆は、附下を外出着に戻していったんですね。

 

 ところが、世代の断絶が起こり、こうしたことが伝わらなくなって、紋の付いた附下を観た人が「附下に紋をつけてもいいんだ」と勘違いを起こし(それは時代的な背景を無視して)、呉服屋もそれを訂正しな事態が発生します。

 

 これは、バブルが弾け、呉服屋が衰退し始めたこともあって、いつの間にか礼装や平服のルールがブレるようになっていったのですね。

 

 さらに、技術の発達と売れない呉服の状態からか附下訪問着というものが登場します。これはコンピューターで絵羽になるよう計算して反物に柄を配置するようになったものなど様々な物があるそうですが、附下訪問着と訪問着の区別は玄人でも難しいんだそうです。

 

 改めてこういうことは正しく時代背景を理解して、きちんと踏まえた上ですべきです。

 

 ですが、敢えて私はいいましょう、「附下げに紋は付けない」と。