一つ思うことは「茶道は習い事だけど、茶の湯は催し事」だってこと。

 

茶道家は習ってる・教えてるだけでいいけど、茶人は茶事を開いてこそ。茶事を開かない人は茶人ではないし、茶事を開くための茶道であると思うのです。

 

習ってるだけで満足という人も多いとは思いますが、一度席主を体験してみてほしいですね。

 

道具組みって物凄く愉しいんですよ。

そういう講座って見掛けませんよね。

 

 いずれ、定年退職したら、道具をカード化して、そういう講座やってみようかな。

 

「カードでやってみる茶道具の道具組み講座」

 

このネタは前に考えた茶の湯カードゲームがベースです。写真を取って、格や素材の種別、作家などを記載しておいて、組み合わせをルール化すると、道具組みが分かりやすくなるんじゃないかと。

 

システム的な部分はそれなんですが、これのポイントは「物語」なので、そこはユーザーのソフトウェア力によりますよね。

 

スマホや辞書とか色々なものを駆使して、物語を組んで、発表し、問答をやる。参加している全員で評価して、正客と亭主で評価点を分け合うとかw

 

 

こちらは前に考えたやつです。

これをどう改造するかな~。

 

 

TALESのランキングに載るようになって、少しずつ読まれているようです。

 

「ようです」というのは、あまり実感がないからなのですが、歴史・時代に投稿されている作品は584作品のようで、まぁその中でのランキングですから、喜ぶほどのことではないのかもしれません。

 

が、ランキングに載るというのはキャッチーなので宣伝に利用させていただいておりますがwwww

 

 

 

 

実際には、NOVELDAYSの64,000PVの方が読まれているという実感がありますが、読了率という指標がないので、完了まで読んでいただけているのか?という不安はありますよね。

 

 

https://ncode.syosetu.com/n0859hd/

 

一番最初に投稿した「小説家になろう」では、11,000PVなので、こちらは苦戦している感じがします。私の作品はラノベではないので、仕方ないのでしょうけれども、NOVELDAYSと比較すると、読まれ方というより「目についていない」で、埋もれているというのがはっきりと分かる所です。

 

メジャーな武将とか出てきてないですからねw

 

ブログの読者様には是非一度お読みいただければ幸いです。

 吸茶とは一盌の茶を複数の人間で飲み合うもので、現在の濃茶はこれが基本となっています。

 

 これは、「利休が改めた」とされていますが、どうも、「利休が」という能動的なものではなく、戦国の慌ただしさの中で「合理的にした」という受動的な工夫であったようだという論文を発見しました。

 

『秀吉期における新しい茶会様式―吸茶の導入とその意義―』

 

 この論文の中で「侘び茶」とされているのは「侘数寄」のことなので、用語の理解としてはちょっと差異がありますが、その部分を除いて、非常に分かりやすく、発生とその洗練過程、定着までを詳しく論じています。

 

 面白いのは、濃茶の後に「白湯二杯」を出したという部分と、その初見が利休の会ではなく天正十四年十月十三日の中坊源吾が亭主、客は宗治・(鍋屋)宗立・松屋久政が客という部分です。これは亭主相伴の流れで亭主を含めた四人で吸茶をしており、現在のような客だけが吸茶をするという形式ではなかった事がわかります。

 

 また、神屋宗湛の『見聞記』天正十四年十二月十九日に津田宗及が「二名を一服(一盌)にするとはあんまりだ」と発言している記録があり、当時は各服点てが茶会として丁寧であるという認識が強かったことも分かります。

 

 また『多聞院日記』の天正十六年二月九日に、秀吉所有の井戸茶盌に煉られた濃茶を五名で吸茶せよと出された折に、客が茶盌を奪い合って我先に飲もうとして、茶盌を割ってしまったという話があります。この場を取り繕ったのは細川幽斎で、『伊勢物語』にちなんだ和歌を即興で詠み、秀吉が感心したというエピソードが知られます。

 

 このシーンは何を表しているかというと「順番に飲む」ということが「決められていなかった」ことを表しています。

 

 ここで論文に面白いことが書かれています。

 

 初見とされていたものの二週間前に、既に吸茶が見られるというものです。これは天正十四年九月廿八日の豊臣秀長の茶会で、山上宗二が点前、客は松屋久政、これは、久政と宗二の二人で飲んだらしいです。

 

 この中で

・亭主と客が二人で一緒に吸茶

・客同士が二~五名で吸茶

・正客は各服、次客以下は複数で吸茶

 というパターンが有った事がわかります。

 

 このことから、吸茶が「徐々に臨機応変に取り入れられていった」様子が分かるのです。

 

 また、この頃は「大名茶の湯(茶杓四~五匙に柄杓一杓)」と「町人茶の湯(茶杓三匙に柄杓一杓)」という区別があったことも書かれています。

 

 つまり、現在、千家が濃茶三匙・薄茶一匙半、武家茶が濃茶五匙・薄茶二匙半というのは、この頃既に行われていたということになります。

 本日は旧暦十一月十三日、二十四節気の第廿三、「小寒」です。
 

 寒の入りともいい、一年で一番寒い時期になります。
 旧暦ではだいたい11月~12月にあたり、年末ということになります。『暦便覧』には「冬至より一陽起こる故に陰気に逆らふ故、益々冷える也」とあります。

 寒中見舞いは本来この頃に出し、御歳暮はこの後……ということになる訳です。
 
 武道の寒稽古や寒中水泳が行われる時期でもあり、小寒と大寒を合わせて「寒中」といいます。

 これを過ぎると春。
 冬の寒さをしのぐために、茶道では筒茶?を用いて、暖かい茶をお出ししたり、暁の茶事で極寒の朝の夜明けを愉しむ茶事が催されたりします。

 本来はこの後が「年越しの茶事」になるのですが、近年では旧暦で執り行うところも少なくなりましたので、なかなか順序が入れ替わってしまっています。

 冬の中にこそ春があると思って、椿を愛でながら、春の訪れを心待ちにする……といった心境でしょうか。

 この時期は長着ですと「本袷」と呼ばれる表地と裏地を同じ生地で作ったものを纏う時期ですし、袴ですと「総裏」と呼ばれる裏地のついた袴を着ける時期でもあります。また、旧暦十二月は綿入れの時期でもあり、節分までの寒さをしのぎます。

 月桑庵では、姫侘助がほころび始め、港の曙にも蕾がつきはじめています。
 一休椿を心待ちにしてます。

 小寒に相応しい御軸としては……
 「寒夜聴霜」「枯木倚寒巌」「鶏寒上樹鴨寒下水」などがいいでしょうか。小雪・大雪でも紹介した「独釣寒江雪」は「寒江」であって、季節的な「寒い」ではないので、使い回しには注意を要するかと思います。

 

 

 本日は旧暦十一月十五日。

 七五三です。

 七五三とは「天和元年十一月十五日に館林城主である徳川徳松(江戸幕府第5代将軍である徳川綱吉の長男)の健康を祈って始まった」といわれる江戸時代以来の子供のお祭りです。

 旧暦の十五日は二十八宿の鬼宿日(鬼が出歩かない日)に当たり、何事をするにも吉であるとされ、旧暦十一月は収穫を終えてその実りを神に感謝する月であることから、氏神への収穫の感謝を兼ねて子供の成長を感謝し、加護を祈るようになったようです。

 江戸時代に始まった行事ですから、数え年でするものです。

 といいながら、我が子の三歳は失念していて、翌年満でやりましたが(爆)⇒男の子なのでやらんでもいいんですけどね

 七五三は

・数え年3歳(満年齢2歳になる年)
 「髪置きの儀」とし、主に女児が行う(男児が行う例もある)。
 江戸時代は、3歳までは髪を剃る習慣があったため、それを終了する儀。
 被布と呼ばれる稚児着を着せます(男児は三つ身のみで袴なし)。


・数え年5歳(満年齢4歳になる年)
 「袴儀」とし、男児が行う。男子が袴を着用し始める儀。
 紋付羽織袴。

・数え年7歳(満年齢6歳になる年)
 「帯解きの儀」とし、女児が行う。女子が幅の広い大人と同じ帯を結び始める儀。
 振袖。

 というのが関東での行事。

 基本的に武家の行事ですので、関東のものが主流。

 関西ではこうした行事はなく、十三詣りで一括してやっていたようです。

 七五三につきものなのは「千歳飴」。

 これは江戸時代の元禄・宝永の頃、浅草の飴売り七兵衛が売り出し流行した「千年飴」から始まっているそうです。

 ここは「松樹千年翠」がぴったりですかね?

 三、五、七の字の入った掛軸もいいかもしれません。

 三なら「三冬枯木花」、五なら「一花開五葉」、七なら「座一走七」など如何でしょう?