本日は旧暦七月一日、文月朔日です。
旧暦でも、初秋となりました。
そしてもうすぐ残暑。暑いことには変わらないのですが、もう少ししたら朝夕は大分涼しいなってくれるでしょう。
定説では七夕に和歌や歌を詠み字の上達を願ったことからと言われていますが、乞巧奠が奈良時代に渡来する前からの和風月名ですので、稲が穂を含む月という意味の「穂含月(ほふみづき)」から変化したと考えられます。日本の暦が稲と密接に結びついていることがよく分かりますね(雷=稲妻もそうですし)。漢字の文を当てはめたのが和歌を詠むことや字の上達を願ったことに掛けてのことだったのかと思います。
さて、今月も別名の解説をしていきましょう♪
相月【あいづき】
愛合月からか。
書披月【ふみひろげづき】
文披月とも書く。七夕の短冊を書いて飾る(披げる)ことから。
秋初月【あきそめつき/あきはづき】
秋の最初の月であることから。
愛合月【めであいづき】
七夕からの名前で、牽牛と織姫が年に一度会える月であることから。
女郎花月 おみなえしつき・をみなえしづき
女郎花の花が咲く月であることから
新秋【しんしゅう】
初秋であることから。
七夕月【たなばたつき】
七夕のある月であることから。
親月【ふづき/しんげつ】
盂蘭盆会 (うらぼんえ) の行われる月で、「親の墓参りに行く月」の意。
孟秋 もうしゅう
孟・仲・季の季節の数え方。秋の最初の月であることから。
文披月【ふみひらづき・ふみひろげづき】
書披月に同じ。
涼月【りょうげつ】
さわやかに澄みきった秋の月のこと。
建申月【けんしんげつ】
北斗七星の柄(建)が旧暦で申の方位を向くため。
桐月【とうげつ】
大きな桐の葉が音をたてて落ちると、秋になったなと思うという淮南子の語によるもので、桐の一葉を意味することが多い「桐秋」から。
七夜月【ななよづき】
七夜とは七夕の別名。
蘭月【らんげつ】
蘭秋(らんしゅう)が初秋を意味することから。
本日は旧暦、年月日。二十四節気、第十四の処暑です。
朝夕の秋風が心地よくなってまいりました☆彡☆彡☆彡
処暑は二十四節気の第十四節。『暦便覧』では「陽気とどまりて、初めて退きやまむとすれば也」と説明され、台風襲来の特異日とも言われます。
萩の花が咲き、穀物が実り始めます。厳しい暑さが峠を越し、朝夕は涼風が吹き、山間(やまあい)では早朝に白い露が降り始め秋の気配を感じます。
処暑とは「暑さが終わる」ことを意味します。
処は「處」の新字体で、「神事で劇を演じる虎の頭をかぶった人が腰掛けている姿」を意味し、虎の頭をかぶった者の座って動かない様子を表します。
ここから「いる」「ところ」などの意味が生じます。「夂(のぶん)」と「几(つくえ)」の会意形声文字ですが、この「几(つくえ)」とは現在の椅子のことで、床几(しょうぎ)といえば、野外で武将などが腰かける携帯用の折りたたみ椅子です。
また、訓みとしては「お-く」「お-る」などとも読み、「とどまる」「とりさばく」などの意味もあります。
このことから「暑さを処く」となり「暑さを取り捌く季節」つまり、うだるような夏の暑さの引く頃となります。
といっても、まだまだ秋が深まるのは先のお話し。
この処暑までが薄物(絽や紗、麻)の季節となり、次の白露からが褝(ひとえ)の時期になります。「処暑を過ぎたら~」というのは、「処暑の日ではなく処暑の節気を過ぎたら」の意味になります。今年の白露は9月7日。9月6日までは薄物OKですよ^^
ですが、そろそろ、衣更えの心づもりをしておきましょう♪
それとともに夏の家具を片付けて、秋の準備を始めます^^
このころの御軸としては「随処作主(立処皆真)」、「鑊湯無冷処」「何処惹塵埃」なんてチョイスは如何でしょう?^^
た~まや~~~~!
かぎや~~~~~!
夏の風物詩といえば花火。
花火が日本にやってきたのは、室町時代末期――戦国時代の頃だったりします。
当時、日本は世界一の鉄炮保有国で、世界一の火薬原料の輸入国でした。
鉛は東南アジアから、硝石も南蛮貿易によって輸入しています。当時の記録ではタイやカンボジアから輸入していました。鉛は輸入のままでしたが、硝石は天正年間頃から国産化が大規模に始まります。
硫黄と木炭は豊富にある日本ですが、当時は硝石が国内で不足しており(精製技術が発達していなかったとも言われます)、輸入に頼っていたんですね。
そして、そうした技術が下地となって、江戸時代に花火が広まった結果、日本の風物詩になりました。
この花火というのは明人がもたらしたもので、南蛮人の教会などでも打ち上げられていますが、江戸時代に入るまでは日本で製造されていません。
元々、支那で発明された火薬がシルクロードを通りイスラム諸国を経て、12世紀後半にヨーロッパへと伝わりました。
ルネサンス期のヨーロッパでは、キリスト教の宗教行事に花火を利用することで、お祭りを盛り上げるのに効果的であったことから、都市の発達や商業資本の隆盛を背景として、ヨーロッパ全域に急速に広がっていきます。
16世紀にはイギリスのエリザベス1世がワーウィック城やケニスウォース城で大花火を楽しんだことや、17世紀のロシアのピョートル大帝がモスクワで大花火を開催し、花火研究所まで造ったなどの記録が残されています。
また、江戸時代になると火薬の製造は幕府の許認可制になり、三河でのみ製造・貯蔵が許されました。このため現代でも花火問屋が愛知県三河地方や遠州地方に多いんですね。
火薬の輸送は厳密に管理されましたので、花火師も必然的に三河に集まり、火薬の調合技術を伝えていきました。
日本における花火大会は、八代将軍吉宗公が享保十八年五月廿八日に両国の川開きの日に「水神祭」を開催し、大飢饉で犠牲となった人々の慰霊と悪霊退散を祈願したときに花火を打ち上げたことが始まりです。
これは前年の享保十七年に西日本一帯で長雨と冷夏により、収穫前の稲にウンカという害虫が発生し、稲作に甚大な被害がでました。
『徳川実記』によると、飢饉による餓死者は全国で97万人にも及び、米価の高騰で困窮した江戸の民衆による打ちこわしなどの暴動も発生しました。
当時はこのような飢饉などの災厄は悪霊のの仕業と考えていましたから、そのためのものだったのです。
花火の歴史も調べると面白いものですね。
堺流――紹鴎流とも言われる茶道の一流派ですが、利休流よりも古い奈良流(珠光流)が色濃く残っていると思われる流派です。
調べましたところ、大阪堺市に矢島洋子先生が教室を開いていらっしゃるようです。
現代に堺流が残っているということが嬉しい限りでありましたし、その点前を拝見してみたいという思いがむくむくと……。
知り合ったThreadsの方は「もう親族ぐらいしか習っていない」とおっしゃって居られたので、堺の人たちには是非ともこちらの流派を保全していただきたいものです。
小さな流派を大切に、特に地元の流派は亡くならないよう保存会形式でもいいので残してもらいたいものです。
無くなったら最後、文献があっても訳わからなくなってしまうものですから……
堺流、知る機会があったら是非とも拝見したいですよね!
