第八章まで読み進めたところで、茶道の概念論に切り込んできました。
珠光の「心の一紙」における「和漢の間を紛らかす」というのが、「唐物主義を否定した和漢混在の道具的な取り合わせ」と解釈されてきた今までの茶道に対し、「何物にもこだわらない、悟性を持ったありようである」と解いています。
一理あります。
侘びているからといって、良さも分からず信楽や伊賀、備前を用いるのであれば、それは違います。
道具にはその道具が用いられるだけの物語が必要であり、そうした世界観の中に居場所を用意できないのであれば、それは用いてはならないのであって、それが、悟性という仏教的な「感情や欲望のコントロール(支配と制御)」ということに結びついています。
よく誤解されている、「解脱とは欲望を捨てること」だという人がいるのと一緒で、実は仏法において、悟りを得る(悟得)とは「欲望があることが前提」です。
「煩悩即菩提」
煩悩とは凡人が抱く感情や欲望による悩みなどであって、修行を惑わすものでもあります。しかし、これが菩提=悟得に繋がるものであるという考え方が法華の教義にある言葉がこれです。
この書籍では禅に結びつけようとされていますが、このころの茶人には法華の宗徒が大勢いて、その宗教観にも通じるものがあったからこそ、法華の徒も茶の湯に興じたのだと考えねば、不自然です。
この煩悩即菩提を現代語に訳せば「欲望を唯純化せよ」ということです。つまり、欲望を欲望のままにするのではなく、純粋な情熱に昇華させることで、その人に仏性が咲いて、悟得できるのだということです。
妬みややっかみなどから他人を批難するのではなく、間違いは間違い、賛美すべきことは賛美する。そういう純粋さが必要であるということです。
文献史学の本で、このことが書かれているというのは、とても喜ばしいことで、改めてこの本は、全ての茶道家が読むべき本であると思いを深くいたしました。
